　蒼瑾にはこの香りに親しんだ覚えがある。それも一日二日の話ではない。日月の目覚めを、星霜の眠りを、この芳しい花香に抱かれて繰り返した。
　己の世界は暗渠にあり、祈りも希望もなく、明けぬ夜に身を浸した日々──その闇を閃光で裂き、ぬくもりと寄す処を与えてくれた少女。
　その、香りだ。
　花香に誘われるように、彼女との思い出詰まる紫雲英げんげの野原が浮かんだ。だが──

　肝心の少女の姿が、再生出来ない。

　目に鮮やかな碧落と紫晶の散らばる翡翠の海の間を、輪郭のぼんやりした人形ひとがたがゆらゆらとゆれ動く。陰気を凝らせて作った黒豹くらやみよりずっと淡い影だ。薄墨で描いた人形には色がなく、言葉も意思もなく、ただ漠然とそこに在る。
　瞬間、蒼瑾は悪夢の全貌を思い出した。
　夢の中でも、少女の姿は薄墨で描いた人形だったのだ。

　なんてことだ。
　俺はあの子のことを、忘れかけているのか。

　翠児の肩を支えていた手が力なくすべり落ちる。翠児が異変に気付いて振り向くと、蒼瑾は彼女の後ろでへたり込んでいる。
「わかさま、どうしたの」
「……起きしなで立ち眩みを起こしただけだ。すぐ……よくなる」
　そうは云うが、青褪めた顔をして額を抱え出す様子を翠児は黙って見てはいられなかった。
「あのひとたち、よんでくる」
蒼瑾は足のことを気にしてくれたが、翠児には彼が弱っていることの方がよほど気懸かりだ。
　だが、
「いい」
　離れようとする裾を掴まれた。端っこを、抓むように。
「ここにいろ……」
　蒼瑾には全ての記憶が失われる時が迫っているような気がして怖ろしい。その恐怖ゆえに、去ろうとする侍女に縋っている。
　翠児は隣房に向かうことを諦めた。体を突き合わせ、憔悴しきった少年の頬に手を伸ばす。

　心地良い冷たさが汗で湿った頬を包む。蒼瑾が訴えかけるような眼差しを向ければ、翠児は両腕をめいっぱい伸ばし彼の頭を胸許へ迎え入れる。翠児が暗褐色の癖毛をやさしくなでるとふれる部分からあたたかな気が伝わる。つい先程に諦めた願望が蒼瑾の望む形で叶っている。それを少々──否かなり恥ずかしくも思うが、幼子の如くあやされることで羞恥心などすぐに忘れてしまうほど、彼の怯えは払われている。

　己を失い、寄る辺ない孤独に置かれた少年は蒼玦そうけつ・洪戒こうかいと云う二人の保護者に名と居場所を与えられ、今まさにここから新たな一歩を踏み出そうとしている。だが期待に満ちた筈の朝は蒼瑾にとって大きな不安を胸裡に孕ませた。
　自分に残された唯一の手がかり──桃紅色ももいろがかった金髪と、翠緑の眸子美しい少女の記憶がこぼれ落ちようとしている。この手から……
（もし……あの子のことを忘れたら）

　俺は何を寄す処かに生きればいいのだろう。
　考えて、打ち消すように頭を振る。
「くすぐったい」
　頭上で翠児が笑った。ごめんと詫びながら顔を上げる。蒼瑾を甘やかす侍女は過去に負った火傷を隠すために分厚い眼鏡と襟巻で表情を隠し、一分の隙もない。声の調子ならいつだって明るいが……せめてどんな顔をしているのか、その笑みだけでも見られたなら。新しい船出も怖ろしくはないのに。
　蒼瑾の家族になることを約束してくれた蒼玦と洪戒の二人よりも、出会ってたった二日しか過ごしていない侍女に彼はすっかり心を許している。彼女が、あの少女の代わりに蒼瑾の罪を赦したためだ。彼は翠児を記憶の少女と重ねている。
（翠児は似ているんだ。あの子に）
　それゆえに翠児の素顔を覗けないのがもどかしい。蒼瑾に対する真心については声と仕草で十分に伝わってくる。なのに不満だった。ここに、簡単には他人を信用出来ない少年の疑心が覗く。記憶をなくす以前の彼は他人を容易く信じない子供だった。たとい郷里の人間だろうと決して胸の内を明かさず、馴れ合おうとせず、住まいをくらやみで覆い隠し、外部からの目を警戒するほど──結果、白沙村における悲劇を招いてしまったのだが──
　蒼瑾は相手の目を見て善悪を踏む。その癖は、記憶が失われた今でも本能に根付いている。蒼瑾にとって害の有無を判断する基準について、先ず大抵の人間は蒼瑾の目を直視出来ない。彼の琥珀色の虹彩は皚国において珍しさもあったが、白沙村で忌まれた蒼瑾の目を見て話そうとする大人はほぼいなかった。そう云う者は蒼瑾と向き合う気がない人間だと判断し、早々に心の枠外に追いやってしまう。翠児の目を見て話せない、顔色が確かめられないことは蒼瑾を暗がりへと引き摺り込む。記憶の中の少女によく似た雰囲気を持つからと、一方的に親しみを抱いていても、翠児の方としてはただ仕事だから優しくしてくれるだけなのでは──と疑えば途端に惨めな気持ちに襲われる。簡単に心の枠外に置ける相手でもなく、自分の中ではっきりさせられない状況に不安感を煽られる一方だ。
　蒼瑾を慰めるこの少女は、果たしてずっと傍に居てくれるのだろうか。
　心から慕ってくれているのだろうか。俺を裏切ったりはしないだろうか──
　せめて眼鏡の奥を覗けたら。こんな疑念に惑うことはないのかも知れないのに。

　懐疑とは裏腹に体は素直な反応を見せる。即ち、翠児の体にしっかりとしがみついている。
　暁光の中を東雲が薄らいでゆくように、忘却に溶けつつある少女の代わりに今や翠児が心を占めている。
　このままあの子のことを忘れて、代わりにこの子を寄す処にしてもいいのだろうか……
　──いや、そんなことは駄目だ。
　忘れては、いけない。だって蒼瑾は、あの子を置き去りにして灎えんに来てしまった。
　せめてその記憶だけは留めてやらなければ。
（身を立てて、恩を返したらきっと迎えにゆく）
　皚国を去るとき、心に決めていた。だから、なんとしても過去を取り戻す。
　きゅっと、唇を噛んだとき。
「わかさま。め、つむって。かおあげて」
「え？」
　唐突に云われ、思わず面を上げると視界いっぱいに眼鏡が迫った。
　ぶつかる──と反射的に瞼を閉じたとき、やわらかいものが唇にふれてくる。
　それが何であるかを蒼瑾が覚る前に、熱を持った波濤が全身を隈無く駆け抜け、思考が刹那停止する。

「……は？　え？」
「つらいのがとんじゃうおまじないよ」
　ふふふ、と笑いながら襟巻を鼻の頭まで引き上げている翠児を見上げ、蒼瑾は呆然となる。
　体中の隅々まで熱を持って、混乱のために頭蓋の中身まで蕩けそうだ。
　それが襟巻に隠される瞬間を、目に焼き付けている。白い膚はだの上に桃紅色の蕾がふっくらと実っていた。愛らしい形のそれがついさっきまでふれあっていたのだ。

　接吻──

「～～～～ッ！」
　声にならない音を発し、蒼瑾は真っ赤になった顔を翠児の太腿に埋める。
「ね、つらくなくなった？　つらいのとんだ？」
　期待にあふれた声が頭上に注がれる。
「……とんだ……くそッ……」
　羞恥を誤魔化して悪態をつくが、最後は尻すぼみになって翠児の脚の間に吸い込まれる。
「やったー」
　歓喜した翠児は蒼瑾の頭を抱え込み、ごしごしと頬擦りしてくる。身動きの取れなくなった蒼瑾は観念した様子で、しばらく侍女の好きにさせることにした。それ以前に赤面をすぐには上げられない蒼瑾ではあったが。
（どうしてこんな、表も裏もない子を疑ったりしたんだろう）
　翠児の純粋さ、曇りの無さはあの子とまるで一緒だ。どうしたって入り込んでくる。
　そうして蒼瑾の中で勝手気ままに生きるのだ。
　対する蒼瑾は──縋りきりだ。もうどっぷりすぎて、手放せないかも知れない。

（そういえば、）
　はたと、気付くことがある。翠児の口許に火傷の痕跡はまったく見られなかった。
　鼻も見えたような気がするが、唇ばかりに目がいって傷があったかどうかまでは注視出来ていない。だが、あったとしたらもっと驚く筈だ。
　とすれば、やはり眼鏡で隠されているところにあるのだろうか。
（だったらなんで襟巻なんか巻く？）
　眼鏡だけで隠せるなら十分ではないか。
　満足したらしい翠児が身を離したので、蒼瑾もゆっくりと身を起こす。
　敷き詰められた地毯じゅうたんの上に揃って座り込んでいるが、蒼瑾の方が彼女より頭ひとつ分高い。見上げてくる翠児の襟巻に手を伸ばす──
　しかし翠児は上体を後ろに反らし、避ける。
　その行動によって、襟巻を外すことに抵抗があるのだと知れたが、
（口許は無傷なのだから外したところで問題はないだろうに）
　蒼瑾は少しだけむっとする。その中には拒まれたことに対する憤慨が多分に含まれる。
　険しい気配を感じ取った翠児は首をすくめ、弱々しく詫びる。何故詫びるのだろう。翠児にとって厭なことをしたのは蒼瑾だ。彼の一方的な怒りに対し翠児が謝る必要はどこにもない。
「何に対して詫びるんだ」
　そう問い詰めれば、翠児は依然体を縮ませながら「みせちゃだめなの」と答える。
「見せちゃ駄目？　それって」
　自分が見られたくないと云うより、誰かの云い付けで見せられないと云うことか？
　翠児に対して指図できるのは蒼玦と洪戒だ。つまり、あの二人の命で素顔を隠していることになる。
　……なんのために？　蒼瑾は眉を顰める。
　斯くして翠児が素顔を隠すことへの小さなわだかまりは、新たに生じた疑念により強まる。
　蒼瑾には知られぬようにとの意図が働いている。それが不可解だ。
　あの人たちは何を案じているのだろう。翠児の正体が蒼瑾に知れるとまずいのか。
　蒼玦は翠児を、たとえやんごとない身分だとしても今の蒼瑾にとってはただの侍女で、それ以上でも以下でもない、と云い切り追及を封じた。だが翠児の形なりが蒼瑾の目を眩ませるものとなれば──話は複雑になってくる。
　翠児は蒼玦と因縁がある男・白来光に狙われた。理由は翠児の正体にあると蒼瑾は考える。だが蒼瑾には彼女の正体は明かされず、素顔まで見ることが許されない。白来光を退けたのは蒼瑾の力なのに、知る権利を封じられた。それは何故だ？
（俺も、あの男と関係がないわけではい、のか？）
　だとすれば。この巡り合わせは必然の可能性がある。
「──俺がお前の素顔を見ると、都合が悪いのか」
　口中より滑り出た言葉があまりに冷めていて翠児はなんとか取り繕うとする。
「あ、あのね、えっと……。みたらね、わーってなって、うーんってなる、から」
　翠児は両手をうんと高く突き挙げたかと思うと、頭を抱えて唸る。
　蒼瑾の眉間に刻まれた皺が濃くなる。意味が解らない。
「うんと……あっ、そうだ。あのね、みたらくるしいの。ヤケドだからきぶんわるくなるの」
　翠児も上手く説明出来ず、持てる言葉で精一杯伝えようとしている。懸命な様子に、蒼瑾の吊り上がった柳眉はだんだんと八の字に変わる。
「わかさまがくるしいのはいやなの……」
　とどめの一言だった。やはり翠児は火傷を気にしているのだ。見た相手が気持ち悪がるのは耐えられないのだ。翠児は自分よりも相手の心を常に気遣っている。蒼瑾はそう受け取った。それを変に疑って、暴こうとして──
　申し訳ない気持ちでいっぱいになった蒼瑾は、
「ごめん」
　呟くように詫びて、ゆらりと立ち上がる。早くこの場から逃げたい。
　だが、当然のように翠児も立ち上がって蒼瑾の隣にぴったりと寄り添い、下から覗き込んでくる。眼鏡の奥にある眼差しはきっと澄んでいるのだろう。こちらだけ覗かれるのは居心地が悪い。
「わかさま、翠きらい？」
　ぎくりとする。躊躇って唇を噛んだあと、
「きらいとか、そう云うことじゃあないんだよ」
　しかし言葉は続かない。それでは答えになってない。見た目のことを翠児が気にしている。多分傷つけてしまったのだ。この上下手な慰めで却って傷を拡げてしまえば──怖くて、何と云ってやればよいのか、詰まる。
「翠がのぞんだことよ」
「えっ？」
　意思のこもった声が、それまでの拙さとは少し感じが違っていて、蒼瑾は目を見開く。
「だから、あやまらないで」
「…………」
　蒼瑾は言葉を完全に失う。
　またひとつ、疑問が増えてしまった。

「──あの」
　突如割り込んだ声に驚き、蒼瑾は房へやの入口に鋭い視線を向ける。
　いがぐり頭の少年が房内を遠慮がちに覗き込んでいる。蒼瑾と同年代だろうか。そんな子が妓院にいることを意外に思いながら、蒼瑾の目はすっと細くなる。
　いがぐり頭は蒼瑾を見てしばし固まる。
「何か用？」
　見かねた蒼瑾が問えば、いがぐり頭はハッとした表情をし、
「朝食を持ってきた」
　早口で云って、覗かせていた頭を素早く引っ込めてしまう。
　それを伝えるために何故隣房ここを覗くのだろう。主房には蒼玦と洪戒がいるはずだ。
（早起きして出掛けたのか？）
　不在であるためにこちらを伺ったと云うことなのだろうか。蒼瑾はそう解釈する。
　朝食がすでに運ばれているなら着替えをしている余裕はないか。蒼瑾は寛げた襟元を直し、翠児を伴って隣房に向かう。

　しかし、洪戒たちは出掛けていなかった。
「ヨォ……おはよう」
　真っ青な顔の洪戒が片手を力なく挙げながらへらへらと笑う。榻にだらしなく横たわって、その奥にはうつぶせのまま唸る蒼玦がいる──
「ウッ……食事を……運んでもらったから食べなさい」
「どうしたんだ、洪爺。気分が悪そうだぞ」
　いがぐりが円卓の上に粥などの料理を並べる。蒼瑾は卓越しに洪戒を見ているが、なんだか今にも吐きそうな……
「案ずるには……ウ……及ばん。ちょっとな、飲み過ぎた」
　配膳を終えたいがぐりは、今度は空になった手押し車に酒壺を積んでいく。今片すところを見るとあれは昨日飲んだものか。その数に蒼瑾は呆れてしまう。二段ある手押し車いっぱいに酒壺が載るが載せきれなかったものも何個か残っている。
「俺たちに構わず……ウプ……食べなさい」
　洪戒はそれだけ云って「ううう」と唸りながら突っ伏してしまった。蒼瑾は湯匙れんげを持つが、地鳴りのような呻きが重なる中で食事をとる気になれない。
「しょうがとピータンのせてあげる」
　翠児は暢気なもので、湯気の立ち上る蒼瑾の器につけあわせを放り込んでいる。あの二人を前にしてよく平気でいられるなと思いつつ、目はつけあわせの載った小皿を見渡す。
「香菜も頼む」と云えば、翠児は嬉しそうに頷いて、抓んだ香菜を入れてくれた。
「おい……ちょっと多いぞ」
　載せすぎて粥が見えない。
「たくさんたべて、げんきになろうね」
　それを聞いた蒼瑾は、思わず吹き出してしまった。

探花抄Ⅱ〈序〉目覚め