　──美しいものに貪欲になるのは、人であるが故……
　誰かの言葉だが、誰の発したものだったろう？
　しかし、爾来蒼芹の心に根を張るように留まっている言葉である。
　矢張り翠緑玉は、生身であるからこその翠緑玉である。白氏の花魄がいかに翠緑玉に瓜二つであろうと、そしてそのことがどんなに自分を誘惑しようと、蒼芹は依頼を断るべきだと思った。が、断るつもりで黄戒の勤める出版社に出向いた蒼芹は、思いがけず白氏と出会う。
「蒼先生がやる気になって下さって、私は嬉しいです！」
　会うなり勘違いされ、蒼芹はたじろぐ。
　白氏……白来光らいこうは蒼芹より一回り年下で、美女と見紛う容貌には同じ男でも身に疚しさを覚えてしまう。その麗人に両手を握られ、熱視線をぶつけられ、意気揚々と、
「これで小憎らしい華氏の鼻を明かせるというもの……いや、先生の絶技をお見せ戴けるだけでも有難いというもの！　その筆で描かれた私の花魄は、必ず雪花を凌ぐでしょう！　ねっ、先生！　そうでしょう？」
　息も継がぬ勢いで云われては、断る口も挟めぬではないか。隣の黄戒をチラリと窺うと、「今更俺にはどうにも出来ぬ」と書かれた額に大粒の汗を浮かべている。あてにならんと早々に諦め、蒼芹は自分から断ることにする。
「白公子には申し訳ありませぬが、私はこのお話を辞退したい」
　白来光はきょとんとしてから、訝しげな表情に変えて蒼芹を見詰める。
「え。それは……あの蒼子環しかんの孫とは思えぬ発言ですね」
　祖父の名を出され、蒼芹は眉を微かに顰める。
「蒼子環殿は周囲も呆れるほど美術品に目がなく、そして誰よりも執着心の強い方として、蒐集家間だけでなく、下々にも有名なお方だったのですよ。そのことは貴男がよくご存じだと思いますが……」
　そう……だったろうか？
　貧しい暮らしの中、そんな美術品など見た覚えがない。それとも、蒼芹には知らされていない、美術品を収めた倉などがあったのだろうか。しかし祖父は、貧しい中にあっても妾を何人か囲うほどだったから、事実蓄えはあったのかも知れない。或いは、自分は忘れているのかも知れぬ。
「白公子、蒼先生は幼少時の記憶に多少混乱がおありなのです」
　黄戒がフォローすると、白来光は「ああ」と相槌を打つ。
「知っておりますよ、過去の悲しい事件ですね。蒼先生はかなりご苦労なさったとか──察しますよ」
「はあ、どうも……」
「しかし先生。雪花は描いて私の花魄は見もせずに描きたくないだなどと、私が納得するとお思いですか？　いや、たとえどんな理由があったとしても、貴男に描いて頂かないとこちらも困るのです。貴男にだって、祖父殿譲りの執着心がおありでしょうに」
　いちいち祖父を引き合いに出す白来光が煩わしく、つい声音がきつくなる。
「私は祖父のそんな一面、覚えちゃいませんよ！　第一、何だってこの三流画家に拘るのです？　腕の良い画家は他に沢山居るはずだ」
「謙遜なさる。しかし、あの雪花を見て、貴男を三流と評する者は最早居ないのですよ。そして、私の花魄を描くのは雪花を描いた貴男以外に有り得ない」
　白皙に妖艶な笑みを浮かべて云う。眼光に凄みさえある。しかし、蒼芹は怯まない。
「あの雪花の絵をそう見るのか。あれは駄作だ、失敗作だ。過大評価をなさる貴男の目は、つまりはその程度というわけだ。それでは、貴男の花魄も大したことはなさそうだな」
「では、貴男は失敗作だと云う雪花の絵を何故破り捨てなかったのです？　失敗作と判っていて依頼主に提出するのは画家としてのプライドが許さぬのではありませんか？　貴族への当て付けにしても、貴男がその自負を捨てるとは思えません。ましてあの雪花を見れば……貴男は、捨てられなかったのでしょう？」
　蒼芹は、何も云い返せなかった。──図星であるのだ。
　そう、蒼芹は、雪花の絵に不満を抱いても、終ぞ破り捨てることが出来なかったのは、無心を努めたにも関わらず彼の暗部を無意識に塗り込めていたようで、しかし、その闇を認めたくないが、心のどこかで解ってくれる人には許されるのではないかという甘えが、少なからずあったからだ。翠緑玉が許してくれたように──
「……そう、あれは、私の腕が、心が未熟であることを証明した絵に過ぎない。だから厭うのだし、しかし捨てきることも出来なかったのです。私に未練があったからなのでしょう。が、貴男はそんな中途半端な作品をご所望なのか？　それで満足なさるのか？」
　いつの間にか贖罪を請う罪人のような目で蒼芹は白来光を見ていた。すると白来光は、天女の降臨かと錯覚させる媚笑を浮かべ、蒼芹の手を取り直すと、
「貴男の感情が生々しく映し出されているからこそ私は魅力を感じるのです。雪花の絵は羨ましい。だから私は三倍の値を出して、さらに美しい花魄を手に入れた。貴男に描いて頂きたいからです。貴男は貪欲さで名高い祖父殿に、輪を掛けて貪欲な人だ。兎に角私の花魄を見て頂きたい。貴男があれを見て、どんな欲望を見せてくれるのか楽しみだ」
　そして耳元すれすれにまで唇を寄せ、彼は続ける。
「美しいものに貪欲になるのは、人であるが故──そう、故人も言を遺したものです」
　蒼芹は素早く体を離し、瞠目して白来光を見据えた。依然、貴公子は嫣然と笑んでいる。
「誰の言葉だ……それは」
　震える蒼芹に、白来光はクスッと笑い声を洩らす。
「祖父殿の座右の銘ではないですか、蒼先生。うふふふ──」
　また、頭痛が襲ってきた──
　蒼芹は遠退く意識の中に、翠緑玉の笑顔を見た。

　気が付いたとき、見覚えのない天井が視界を占め、蒼芹は飛び起きた。設えの良い内装に調度、体を包む羽毛布団の煌びやかな刺繍──寒生の蒼芹には身の毛立つほど過ぎた豪奢ぶりが目につき、気が付くと絹の衣まで着せられている。覚った蒼芹は慌てて紐を解く。
（道楽貴族が──！　私を拉致するほどかッ）
　上半身裸になったところで、白来光が喜色満面の笑みを湛えて室に這入ってきた。
「先生、お目覚めでしたか」
「私を掠っておきながら、ぬ、ぬけぬけと……」
　怒り心頭の蒼芹を、白来光は哀れんだ目で見詰める。
「お倒れになったから介抱して差し上げたのですよ。ぬけぬけとは非道い仰りようだ」
「では元通り恢復しましたので、家に帰らせて頂きます」
　裸のまま出て行こうとすると、白来光がさっと遮る。
「いけずですね、先生。先生は、一度は私に心を開いて下さったのに……」
　美麗な青年に、まるで恋人を追うような目で見上げられ、蒼芹はぞっとする。ここにいると、自分はこの青年に食われてしまうのではなかろうか。
「私にそんな趣味はありませんから安心して。それに黄氏の了承も得ています」
　そう云われても、ちっとも安心出来ない。蒼芹はなるべく彼から距離を取る。
「……そうまでして描かせたいか。私の醜い感情を、晒させたいのか──貴男は」
　壁際に後退る蒼芹を見て、白来光は苦笑する。
「美醜とは表裏一体、それぞれがあるから成り立つ。美女には棘が孕むように、醜女に優しい心があるように。貴男はそれを知れる立場にあって気が付かないとは。でも、知らぬままに絵筆に走らせることが出来る貴男は……矢張り天才なのですよ」
　パンと手を叩き、外に控えていた小間使いを呼ぶと、白来光は命じて、
「蒼先生のお着替えを手伝って差し上げなさい。終えたら、温室にお連れせよ」
　白来光が去ると、小間使いは蒼芹の体に手を差し向ける。年頃の少女に体を触れさせるのは抵抗があるので着替えを奪うと、ふと自宅の香りを感じた。翠緑玉が好んで焚く香の香り。よく見れば、それは蒼芹の衣服だった。倒れる前に着ていた物とは違う。
（翠緑玉が来たのか？）
　蒼芹は手早く着替えを済ませ、案内を請うた。

　華邸のものとは比べものにならぬ広さを誇る温室は、まるで外の風景を建物の形に合わせてくり抜いてきたようで、植物の他小鳥や色とりどりの虫まで飛んでいる。だが、
（描かせる環境まで張り合うか……。こいつ、思った以上に孺子だな）
　最早呆れを通り越している。
　主は中央の亭でのうのうと茶を注いでいる。その傍らに──思った通り、鳥籠がある。その中に、翠緑玉に瓜二つの花魄を閉じ込めているのかと思うと、反吐が出そうになる。
「先生。そう怖い顔をなさらないで。まあ、掛けて下さいよ」
「ふん」
　蒼芹は悪態を吐きながらも、勧めの通り彼の向かいに腰掛ける。
「良いお茶を頂きました。これを飲むと、貴男はよく落ち着かれるのだそうですね」
　すっと茶杯を差し出され、その嗅ぎ慣れた香りに、蒼芹は一瞬固まってしまう。
「愚妻が……こちらを訪ねましたか？」
　強張った声で問えば、白来光はけろっとして、
「貴男が創作に励まれると長慎殿からお聞きになって、差し入れにいらっしゃいましたよ」
「あ……会ったのか、あれに」
　白来光はにこにこと笑って応える。
「先生が私の花魄を描くことに何故抵抗を覚えるのか、少しだけ解ったような気がします」
　体中の血の気が引くのを感じる。鳥籠の中にいるのは、むしろ自分の方ではないか。
「さあ、では先生、ご覧下さい。これが私の花魄です」
　鳥籠を開け放ち、その掌に花魄を載せて、白来光は蒼芹に差し出した。
　花魄は白い牡丹の花弁のようなドレスを着せられ、足よりも長い緑の髪──黒髪の美称ではなく実際に濃い緑色をして、光に当たると染めた絹糸のように、一本一本がきらきらと輝いて木漏れ陽を彷彿とさせる。しかし……繊細すぎる体は目に見えて判るほど小刻みに震えていて、あまりにも頼りない。だが、それでも──、
（見たい）
　俯いて肩に掛かる髪を、どうにか指で傷つけぬように慎重に払って、
（見たい、見たい）
　ああ、でも指が震えて、掬った髪がさらりと落ちる。
（見たい、見たい、見たい、見たい）
　蒼芹は髪を束にして摘み上げていた。そして、露わになる、白い膚。
　──翠緑の瞳が綺麗だから、翠緑玉と名付けよう。
　──そうされると嬉しいの。それが全てなの。
　驚いた。
　一瞬、翠緑玉が其処に居るのかと思うほどだった。よく似ている。が──、
（瞳の、色が違う）
　顔を近づけて、再度その極小の双眸を覗き込んで確かめるが、蒼いのだ。顔は本当に瓜二つだが、彼の惹かれてやまぬ夏野の瞳──ではない。
　だが、もう蒼芹は冷静ではなかった。取り憑かれたような目をして両手に花魄を載せ、全体を舐め回すように見始める。
（翠緑玉が花魄であったら──）
　その熱心な様子に、白来光は満足そうに頷いて、静かにその場を去った。

　瞳の色が違うだけでこうも印象が変わるか。同じ顔なのに別人のようだ。蒼い瞳は冷たい水底を思わせ、情緒豊かな翠緑玉に対しこちらは表情が憂い顔一つと乏しく、生きているのか、死んでいるのか──その曖昧さが、蒼芹の目を釘付けにする。蒼芹は花魄を掌の上に転がし、ルーペまで持ち出しての観察に明け暮れていた。もう一週間になるだろうか。翠緑玉のことは、こんなにも見詰めたことなど無かったはずだ。蒼芹は、彼女に対しては兎に角意気地に欠け、大切に想えば想うほど見詰められない。直視の難い無垢な美貌が、蒼芹の疚しさをはね除ける。でも、生身の彼女ならば、蒼芹が望めばいくらでも要求に応えるだろう。たとえば、この花魄のドレスを指先でつまんでその内部までを具に覗いても、彼女は怒らないだろう。無表情のまま、されるがままに──？
　ふと、彼女の恍惚の表情が脳裏に浮かぶ。触れられて、喜ぶ顔。しかし、この花魄にはそれがない。こんな屈辱的な行為を受けても──否、花魄にはそうした羞じらいなど初めから無いのだろうか。こんな、乱暴されて心を喪失したような表情──
（俺は……こんな、女を犯すような真似を──いくらモノと割り切っているからと言って、興味本位だけで、こんな、ここまで──！）
　急激に興奮が冷めて、蒼芹は花魄を鳥籠に戻した。
　自分に失望する。
（しかし、依頼主はそんな俺の、剥き出しの劣情を見たいと仰る。応えねば、私は翠緑玉の許にも帰れぬ……っ）
　ガシャン！　と鳥籠を叩く。が、花魄は驚きもしないし泣きもしない。

「青玉せいぎょくと名付けました」
　夕餉の席、白来光が得意げに云うので、解りきってはいたが由来を聞くと、
「先生に倣いました。先生は宝石の名を付けたのでしょう？」
　蒼芹は箸を置いた。
「何故、そのように怖い顔をなさるのです？」
　何故だか、問われた自分でも解せぬ。蒼芹には答えられなかった。

　　　　　＊

「先生、観察はもうよろしいのですか？」
　鳥籠から青玉を出そうとしなくなって数日が経ち、白来光は心配になったのか。
「もう十分だ。変に食い入るように見て、俺は自分が変態になったかと、気が狂れそうだ！」
　蒼芹が荒っぽくイーゼルを設置するのを見て、「いよいよ描いて下さるのですね！」と、青年は目を輝かせる。
「期待しているところ申し訳ないが、私は作業を見られるのが大嫌いなんだ。出て行ってもらいたいものだな」
　最早貴族であるからと云って、媚びへつらいもない態度で接するのは、幽閉されて一月、ずっと翠緑玉に会えぬせいだ。白来光も彼の不満を判っていて、「青玉を慰みものにすればよろしかろう」などと、答える。天人を思わせる笑みには鬼畜さながらの非道さが隠れていた。それを最近知って、蒼芹の方も人とは思わなくなっている。
「お前さんは花魄の鳴き声を聞いたことがあるかね？　この子が鳴かないのは、飼い主のあんたに愛情の欠片もないからではないのかね！」
　蒼芹の非難に、白来光はわざとらしく目を見開かせている。
「先生こそ、青玉の下着なんか覗いちゃって、いやらしいったらありゃあしない。青玉の声を、聞いたことがあると云うのですか？」
「あるさっ！　それはもう痺れるほどの善がり声だ！」
　ムキになって肯定したが……花魄の鳴き声って、小鳥の囀りではなかったか──？
「奥方の嬌声と混同されているようですね」
　さらりと云われて、蒼芹は顔を真っ赤に染める。
「今更ではありませんか」
　白来光はそっと蒼芹の背後に忍び寄り、その肩を抱いて云った。
「先生。もう、私と先生の仲です。恐らく先生の邪心を絵から読み取ったのは、この世で私だけ。先生の気持ちを解ってあげられるのは私だけ、ということです。正直ね、華氏との張り合いなんて、もうどうだっていいのです。貴男の、その初心な想いに包み隠された最も醜くて最も美しい心の原石を、私は暴きたいのです。ねえ、先生──」
「暴く、か……。そんなことも、貴族は愉しいのかね。他人の心をもてあそぶのが──」
　だったら望み通り描いてやる。そして幻滅させてやる。
　蒼芹は怒り狂ったように、木炭をカンバスに走らせた。
　檻に絡まる青玉のしなやかな四肢、
　蒼芹の手首よりもずっと細い胴、
　白い膚に巻き付く緑の髪、そこから覗く虚ろな紺碧の双眸。
　──艶めかしく、絶望的に、しどけなく、退廃的に──。
　これが望みだと叫ぶように、蒼芹は描き殴る。
　俺が翠緑玉に望むこと、翠緑玉に抱いている感情。
　これが──
　白来光は、しかし哀しげな表情で蒼芹を見ていた。どうだ、こういうのが良いのだろう、と思って、振り返ってみたらそんな面だ。蒼芹の手の中から木炭がこぼれた。磨り減って、もう指の爪の大きさくらいしかない欠片は、床をころころと転がってやがて行方を眩ませた。
　──違う、と云うのか……
「先生。私は、青玉にこの名を与えるとき、それはもう想いを込めてつけたつもりです」
　カンバスを切り裂き、切り裂いて切り裂いて粉微塵にして、そうして項垂れてしまった蒼芹の背を、白来光は優しく擦る。
「……私に、倣ったと云った……」
「倣いましたよ。倣ったのです」
　蒼芹はよろよろと顔を上げた。精神的に窶やつれきっている目で、白来光を見据えた。
「貴男は何故、それを知っているのです」
「奥方に聞きました」
　翠緑玉に、か？
　蒼芹は動揺する。
「先生が畏れているのは、奥方の美貌ではありませんよ。安心なさい」
　医者のような口を訊く。蒼芹は苛立って、
「知っている！　私が怖ろしいのは、自分の心だ！」
　叫んで、頭痛に襲われた。最近、こと多い──

　　　　　＊

「旦那様」
　頭上に現れたのは見知った天井だった。そして、愛妻の声に、蒼芹は跳ね起きた。
「翠！」
　蒼芹は翠緑玉の体にしがみついた。すると翠緑玉は頬を桃色に染めて、
「まあまあ、旦那様ったら。長慎様がお見舞いに来ている前で、まるで子どものようね」
　えっ、と声を上げて振り向くと、几に気まずそうにして腰掛ける黄戒の姿があった。
「や、季献。その……見せつけてくれるほど恢復して良かったなあ」
　二人の顔を久々に見て、緊張が解けた。人前で妻に抱きついて羞じらいもせず、それをからかう友人に云い返すことも出来ぬほど、心の底からホッとした。
　白来光は蒼芹を邸に閉じ込めて絵を描かせようとしたのだが、蒼芹が精神的に塞いでしまったので休養が必要だと感じたらしい。倒れた蒼芹を一度帰宅させたのだった。

　その夜は翠緑玉と共に久しぶりに同衾した。翠緑玉の温かさに甘えたかったのだが、そのうち犯した青玉と翠緑玉の違いを探っている自分に気が付いて、蒼芹はそれ以上事を進めることが出来なかった。夫の愛撫が止んで、翠緑玉はそっと起き上がり彼の体に触れる。労りに満ちた感触が、蒼芹の心をいくらか慰めた。
「旦那様、また花魄をお描きになっているのですってね」
　蒼芹は驚愕して、怯えた子犬のような目で翠緑玉を見る。
「な、何だよ。まさかお前、また描いてくれと云うのではないよな？」
　そんな蒼芹を翠緑玉は涙目で見詰める。
「妾が愚かでした。御免なさい、御免なさい。ただ嫉妬しただけなの。貴男が妾以外の娘を見詰めるのが。……描いてくれなくていいの。ただ見詰めてもらいたかったの。思い出してもらいたかったの」
　夏野の瞳から大粒の涙が零れて、蒼芹は正気に戻る。戻って、訳も分からぬ様子で泣く妻を抱き締めると、小さな肩は夜気に晒されすっかり冷えていた。今度は自分が彼女を労って、その肩を擦ってやる。
「どうした、何故泣く。私は、お前を責めるつもりなんて無かった。泣くな、翠。泣くな」
　翠緑玉は夫の優しさに触れて、さらに涙する。
「御免なさい、御免なさい。過ぎた我が儘を許して。傍に居させて──」
　蒼芹は、何故彼女が謝って、泣くのかが解らなかった。
　しかし、蒼芹は直ぐに知ることとなる。
　忌まわしい事件の顛末と、翠緑玉に秘められた謎と共に、その理由を暴くことになる。

花魄〈二〉

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