　その美しい国は、天に届く山岳の中腹、険しい地形が天然の要塞となって外界との接触を一切許さない、そういう場所にあった。大気中には常にダイヤモンドダストが舞っており、純白の雪が覆う大地は時折宝石を粉々に砕いて散りばめたが如く輝く。彼方此方に緑水晶の柱が植物のかわりに生え、雪解け水が川となって注ぐ湖は碧色、底の白砂が見えるほどに透き通っている。そのほとりに街があり、中央に大理石の巨塔が鎮座する。それが王城である。
　その城には国色の姫がいた。星の犇めく瞬きを閉じ込めたきらきらと艶やかな夜色の髪を、陶器の如く真っ白で滑らかな肩に垂らし、ほっそりとしなやかな体を絹の衣に包む姿はこの世の者とは思えぬほど、見る者全ての目を眩ませる美しい輝きを放っていた。髪色にちなみ、人々は瑠璃姫と呼んだ。
　彼女の国は険しい自然に固く守られ他国に侵されることもなく、人々も秩序を保って日々穏やかに過ごしてきた。そして姫も、周囲の愛を受けて健やかに、争いも穢れも知らず無垢なままに育った。
　だが、幸せの日々は潰えた。堅牢な守りで知られた白い王国は、飛ぶ鳥落とす勢いで力を伸ばし、天下を平らげるのも間近と云われるほどの猛者・冪羅べきら王の侵入を許してしまう。冪羅は頭が良く、難攻不落と云われた王国に攻め入ってから僅か二晩のうちに陥落させた。長らく争いを知らず、山の加護に守られることにすっかり慣れた王国は、いざ冪羅の侵入を許すと崩れるまでは赤子を縊るようにあっけなかった。
　冪羅は美しい国を軍靴で穢し、瑠璃姫の父王を殺害し、その血塗られた体で玉座に座った。瑠璃姫は冪羅を激しく憎んだが、父王を悼んで泣くことはなかった。泣けば光を失ってしまう。そうなっては仇である冪羅を殺せぬ。瑠璃姫はどんなに辛くどんなに悲しくても、決して涙を流そうとはしなかった。

　瑠璃姫の操が危ないと、冪羅が国に侵略してきた当初から囁かれていたことだが、今際になって瑠璃姫は抗おうとはしなかった。戦に負けたのだと諦めてしまえば身を惜しむ気持ちもどうでもよく思えた。銀色の甲冑で身を隠す冪羅はひどく醜い男である、だから姿を隠すのだと侍女達が噂していた。さすがに甲冑姿で閨に訪れなかったが、あまりにも端正な顔立ちの男が現れたときは、まさかそれが冪羅だと瑠璃姫は思わなかった。切れ長の澄んだ瞳が印象的な美青年であった。しかし、相手がいくら優れた容姿の持ち主だからといって瑠璃姫が靡くはずもない。彼は父王を殺したのだ。生前限りない愛情で瑠璃姫を守ってくれた優しい父を、その手で──
　瑠璃姫の中で憎悪の炎が揺らめくのと同時に、体が小刻みに震えはじめた。覚悟していた筈なのに、今更恐怖が身を襲ってきたようだ。レースの縁取る紗の天幕に守られた寝台上、瑠璃姫は身の内の恐怖を抑えることに努める。簾を上げて冪羅が侵入してきたときには気を奮い立たせ、瑠璃姫はきっと前を見据えた。
「気丈な娘であるな」
　冪羅は瑠璃姫を美術品でも鑑賞するようにじっと見詰め、姫は視線に息苦しさを覚えた。姫の美しさは並の男の色欲を綺麗に吹き浚う力がある。しかし冪羅の眼差しはどの男よりも不躾で、瑠璃姫を我がものとすることに畏れも迷いもない。
「私を恨むか。しかし、恨むのなら自身の美貌を恨むことだな」
　冪羅のあまりの物云いに瑠璃姫は頭に血が上るのを感じた。罵詈雑言を浴びせてやりたいところだが、本懐も遂げぬうちに命を奪われるのは本意ではない。姫は慎重に言葉を選んで冪羅を批難した。
「たかが一人の女を手に入れるために、人々を苦しめる。貴男は後世最も愚かな王として歴史に名を残すのでしょうね」
　冪羅は生意気な口をきく目の前の女に、怒るどころか愉しむように笑みをもらすと、
「随分大切に育てられたようだがな。その、たかが一人の女を巡って各地の王が我を競い、国を乱していることをそなたは知らぬようだ」
　冪羅の言葉は瑠璃姫に大きな衝撃を与えた。自分の美貌が原因で男達が争い、世を乱し、大事な父王を殺す結果を招いた──その事実が姫の心を容赦なく抉り、傷を深く残した。
（私の所為、全て私の──）
　打ち拉がれる瑠璃姫を、冪羅は遠慮なく寝台に押し倒した。戯れもほどほどに体内に侵入してきた冪羅を姫は身と心を傷つけられた苦痛に耐え、侮蔑の感情を双眸に込めて見上げる。
「貴男とて他の王と変わらない。私をこうして玩んで、愉しんでいるのだから」
　嬌声の代わりに蔑みの声を浴びせられ、冪羅の怒りを買うかと思われたが、
「そなたが原因で世が乱れるのなら、その原因を取り払えば事態は落ち着く。そしてそれは、最も力のある私が行う。そなたの父王ではそなたを守ることは出来なかった。その為の力と、知恵が無かったのだ。これからは私が守る。そうすれば世は平和になる」
　まるで睦言のように優しげな声で耳朶に告げられ、瑠璃姫は困惑した。父を殺した男が、実は世の乱れの収まることを願う義の人だと云うのか。
　彼は人を殺している。しかし、姫は血の流れる原因となっている。どちらが悪く、責めを負うべきか──姫には判らなくなってしまった。

　　　　＊

　冪羅が瑠璃姫を手に入れたことで、天下は平定されたかに見えた。しかし中にはしぶとく姫を欲する者がいて、強引に瑠璃姫を奪った冪羅こそ悪の権化、姫を救い出した者が天下を統べる王たり得ると上辺だけの正義を掲げて戦を続けた。それからの冪羅の戦いは反逆者をねじ伏せるために行われた。　戦に行く前に、冪羅は必ず瑠璃姫を抱いた。冪羅の愛撫は初めての夜よりもずっと、壊れ物を扱うように丁寧であった。
「安心しろ。私が守る」
　高まる熱に翻弄される瑠璃姫に、冪羅は何度も囁いた。その頃の瑠璃姫には、もう冪羅を仇として討つ気は無くなっていた。夜毎優しく腕に抱かれ、不安を取り除く言葉を掛けられ、慈しまれている。瑠璃姫を心から守ろうとしていること、ひいては世界の安寧を願っていること、それらが本心であることを知って、抗いようもなかった。
　瑠璃姫は冪羅を愛していることに気が付いていた。だが、それでは父の無念を晴らせない。父を殺した男を愛し、その無念を身の内に封じ込めてしまおうとしている自分が許せず、瑠璃姫は冪羅に抱かれる間、とうとう抑えきれなくなって声を出して泣いた。冪羅は驚き、すすり泣く姫の顔を見た。瑠璃姫の目許に輝くのは、なんと石であった。小粒だが、確かに宝石の輝きを宿すその雫を冪羅は手にとって凝視したが、何度見ても涙ではなく硬質な輝きを持つ粒である。
「瑠璃よ、これは何だ？」
　冪羅が問うと、瑠璃姫は涙声で答えた。
「私の……涙です。私が涙を流すとかわりに水晶の欠片が零れるのです。目を傷つけるから、私はずっと泣くことを禁じてきました」
　冪羅は腕を回し子をあやす仕草で瑠璃姫の背を優しく叩いた。決まったリズムが瑠璃姫の昂ぶった気持ちをいくらか落ち着かせた。
「どうして泣く。辛いのか？」
　冪羅が案じるので瑠璃姫は頭を振り、
「貴男があまりにも優しく私を愛してくれて、貴男を憎みたいのに、でも心は貴男を好きだと云って偽らないのです。父に申し訳なくて、なのにあまりにも幸せで泣けてしまうのです」
　瑠璃姫の言葉に、冪羅は初めて謝罪の意を口にした。
「すまなかった。私は、そなたに殺されてもきっと恨まぬ。そうしたいのなら、構わない」
　瑠璃姫はまるで霹靂を受けたような気分だった。
「そんなことを云わないで。私には、もう貴男しかいないのです。貴男を愛しているのです。ああ、貴男を殺すなんて酷いこと、今の私には出来るはずがない！　こんなにも貴男が愛おしく、慕わしく、狂おしいほど恋い焦がれているのに！」
「瑠璃……」
　二人は互いの心を確認するように、唇を触れ合わせた。
「冪羅様……どうか無事に帰ってきて。父のことを記憶の彼方に押し遣る罪を負ってでも、私は貴男が好きでたまらないの。貴男の笑顔が、貴男の腕が、貴男の全てが愛おしいの。貴男が居なくなったら、私生きてゆけない──」
「私は死なぬ。きっと生きてそなたの許に帰る。大丈夫、私が強いのはそなたがよく知っていることだろう？」
　冪羅は瑠璃姫の赤くなった目元にそっと指で触れる。石の涙が小さく煌めいた。
「こんなに痛々しい涙を、もうそなたに流させたくない。約束する、私はそなたを泣かせはしない」
「冪羅様──」

　幸福に包まれた夜は明け、黎明の中を冪羅は出陣した。瑠璃姫はその姿が見えなくなるまで見守っていた。

　　　　　＊

　冪羅は、しかし約束を守れなかった。敵国と密通していた冪羅の参謀が、戦に紛れて王を暗殺したのだった。報せを受けた瑠璃姫は冪羅から後事を託された兵に逃亡を勧められるが、彼の遺体を見るまでは逃げられぬと、居城にてその帰還を待ち続けた。
　居城に現れた敵国の王・馬喰ばくろによって返還された冪羅の遺体は、眠っているだけみたいに綺麗で、姫はその体を労るように抱き寄せ、冷たくなった頬に口づけを落とす。
「そのようなことをしても冪羅王は生き返らぬ」
　馬喰の血も涙もない言葉が玉座の間に残酷に響く。しかし、瑠璃姫は冪羅との永の別れを惜しむばかり、馬喰の声などはなから届かない。
「いつまでやっておるのだ！　儂を見よ！」
　自分を見ようとしない姫に苛立ち馬喰は叫ぶ。瑠璃姫は、しかし一度たりとも見てやらぬと云いたげに、冪羅の死に顔を見詰め続けている。
「冪羅様、冪羅様……。ごめんなさい、ごめんなさい。私の所為で死なせてしまった……。私の為に愛しい人が命を落としてゆく……。辛いわ、悲しいことだわ」
　両目に熱いものが込み上がってくる。だけれど、もう堪えることが辛い。
　馬喰は瑠璃姫の顎に剣先を突きつけ、強引に顔を上げさせた。そして、あまりにも美しい瑠璃姫の容貌に、荘厳な清らかさを放つ神がかった輝きに馬喰は畏れを抱いた。しかし世の安寧を願って瑠璃姫を手に入れた冪羅とは違い、馬喰の浅ましく下劣な欲は尽きるところを知らず、澱んだ邪気を全身の毛穴から放って姫の清浄な気を打ち消す。
「儂の妻になれ。冪羅を愛したように。そうすれば世界は丸く治まる」
　馬喰は下卑た笑いを浮かべながら云った。彼の全体から滲み出る射干玉色のオーラは醜い下心を表しており、瑠璃姫には彼を愛する気になど全くなれなかった。
「貴男が欲しいのは私の体でしょう。貴男は心の底から世の安寧を願っているのですか？　私にはとてもそのようには見られません」
「冪羅とて同じだろう」
　馬喰はその面に不快感を滲ませる。
「お前は戦禍の種だ。お前を巡って世界は争うことを止めぬ。お前が生きている限り戦乱の世は終わらぬ。誰がお前の伴侶になってもそれは変わらないのだ。取って代わりを繰り返すばかり、本当の平和など訪れぬ。ならば我こそは……と思うのは自然の道理だろう」
　瑠璃姫は、その通りかも知れないと思った。
　自分が生きている限り争いは絶えない。でも、誰かが伴侶に名乗りを上げたところで冪羅ほどの愛情深い男には今生会えまい。居たとしても瑠璃姫は冪羅のように愛することはないと感じた。それほどまでに冪羅を愛していたし、魂の失われた器だけの姿になっても冪羅が恋しいし、慕わしいのだ。
「冪羅様……冪羅様……」
　哀しみに暮れる瑠璃姫を、馬喰は兵に指示して立ち上がらせる。しかし兵は瑠璃姫の顔を見て吃驚してしまった。瑠璃姫の目から、水晶の欠片が止めどなく溢れ出ていた。
「泣きたいときに泣けないの……辛かった。だけど一番見たい笑顔はもう見られないもの。だから私泣くわ。光を失っても構わない。冪羅様の死を悼むわ。悲しむわ」
　堰を切って溢れる石の涙は流星の如く煌めき、シャラシャラと音を立てて床に落ちる。

　瑠璃姫は泣いた。
　亡父の分も泣いた。
　冪羅のためにはもっと涙が流れた。
　泣きじゃくる瑠璃姫の瞳は水晶の角に傷つけられ、ついに赤い血を滲ませる。その血までも美しく凝固し、姫の頬には水晶と紅玉の輝きが絶え間なくこぼれ落ちて、兵はすっかり怯んでしまった。それは馬喰ですら同じだった。
　瑠璃姫は冪羅の遺体から素早く短刀を抜き取ると、首筋に刃を立てた。
「瑠璃姫、何をする気だ！」
　気付いた馬喰が制止するが、
「下がりなさい、馬喰王。私を欲しがるのなら一時の時間を頂戴。冪羅様とのお別れの時間を──」
　瑠璃姫の意志の強さに、馬喰は折れた。一刻だけ、と云って馬喰は冪羅の居城から兵を退かせ、二人きりにさせた。

　　　　　＊

　静謐さを取り戻した玉座の間に、石の涙の落ちる音だけが微かに響く。
「光も命も、もう要らない。冪羅様への愛だけあればそれで……。ねえ……私もゆくわ。そうしたらお迎えに来て下さる？　貴男のゆく美しいところへ、私も連れて行って下さる？」
　かすむ視界に写る冪羅の横顔は、とても穏やかであった。
「冪羅様……」
　愛おしげに夫の名を呼んで頬笑むと、瑠璃姫は頤に刃を突き立てた。貫かれたところから鮮血が勢いよく噴き出し、空気に触れた瞬間に石となって床に散乱する。真紅の筋は徐々に結晶化しながら瑠璃姫の体を伝い、冪羅の亡骸を優しく包んだ。

　一刻が経って馬喰が戻ると、玉座の間に石の柱が立っていた。玉座の天井を色とりどりに飾るステンドグラスから光が射し込み、いくつもの面を持つ石に反射してそれは美しい輝きを放っている。石柱の傍らに冪羅の短剣があった。全体紅玉に包まれており、まさかそれが瑠璃姫の血であるとは思わず、馬喰は兵を挙げて城内を探させた。結局二人の姿は見つからず、馬喰は石柱の前で呆然と立ち尽くすと、やっとそれが瑠璃姫の成れの果ての姿だと理解した。馬喰は惜しんで手を伸ばすが、石柱は彼を拒むようにピシッと亀裂の入る音を立て、次の瞬間粉々に砕け散った。