　眩む陽射しから逃れ、山道に入る。多少熱が和らいで涼しさを覚えるも、かれこれ一時間近く歩いている。シャツがじっとりと湿って背中に張り付くのが鬱陶しい。
　少し先に小さなお堂がある。休憩しようと近づくと、お堂の陰から白い大根が見えた。こんなところに大根……訝しんでさらに近寄ると、それは白い足だった。
　白地に撫子の描かれたうすものを着た娘が、両足を無造作に放り出して眠っている。太ももが露わになるところまで襦袢をたくし上げ、大股を開いており、年頃のお嬢さんがなんとまあ……。私は見なかったふりをしてお堂を通り過ぎる。
「ご機嫌よう、おじさま」
　娘が背後から声をかけてきた。思わず振り向くと、水蜜桃のようなみずみずしさをたたえたかんばせに、莞爾とした表情を浮かべ、瞳をぱっちりと見開いて私を見詰めている。年は十六、七くらいか。花の盛りを迎えた、見蕩れるほどの佳人だ。
「見苦しい姿をお見せしてごめんなさい。でもこの暑さでしょう。我慢出来なくって」
　娘はゆっくり立ち上がり裾を閉じたが、雪膚の眩しさが眼に焼き付いて離れず、居心地が悪い。
「……私はまだおじさんという年ではないよ」
　誤魔化すように応えると娘は首を少しだけ傾け、三つ編みの青いリボンを指先で玩びながら、
「では、おにいさま」
　訂正し、私の目の前まで歩み寄ってきた。どこか幼い印象を受ける大きな双眸が楽しげに眇められ、白い手を差し出すので、握手かと反射的にこちらも手を出すと、掌に何かを載せてきた。
　小石ほどの大きさ、木漏れ日に翳すとラムネ瓶のように爽やかな透明感がある。硝子の破片であろうか……破片にしては規則正しい立体である。
「石ですわ。光を集めると、夜ぼんやりと明かりを灯しますの。不思議でしょう？」
「へぇ……」
「夜の帳が降りる頃、縁側でごらんなさい。きっと、うつくしいものが見られますわ」
　娘は石を握る私の手に指先でそっと触れて、嫣然微笑んだかと思うと、おさげを揺らして煌めく緑の木立へ消えた。

　帰宅後、習慣通りに散歩の汗を流し、夕餉を済ませ、寝所に蚊帳を張り終えた私は、娘の言葉をその時になって思い出し、石を掌に転がしながら縁側に立った。日中の晴天とは一転、天蓋を雲が覆い星ひとつ見えぬ。
　私は指を開く。石はほんのりと、緑色に光っている。
　ほう……と感心していると、蚊遣りの煙が天に向かって糸柱を作る、その向こうに螢火を見た。石と同じ色である。
　それがくらやみの中、無数に集い、まるで眼前に天の川が広がっているような光景だ。そう呟くと、庭の茂みからあの娘が現れた。娘を囲って螢が戯れ舞う。
「おにいさま」
　娘は無邪気に駆けて、私の胸に飛び込んできた。肩に螢がとまっているので摘まむと、それは石だった。
「螢ではないのか」
「いやね、おにいさま」
　娘はくすくすと声をたて、
「空のお星様たちだって、石ですのよ」
　当たり前だと笑った。
　それからは流れで、二人並んで縁側に腰掛け、螢石が浮遊して出来た天の川をぼんやり眺めていた。
「そう云えば、今宵は七夕であったか。せっかくの逢瀬が曇り空では台無しだな」
　思い出して云うと、娘が華奢な体を私の肩に預けてきた。
「夏彦と織姫は仲むつまじく……過ぎて、怠けるようになり、天帝の怒りを買った。引き裂かれた二人は年に一度だけ、逢瀬を許された……。だから今宵は、今宵だけは、離れていた分触れ合ってもいいの。それが許されるの」
　星を映す娘の瞳が潤んでいる。光る雫が頸筋を伝って、襟の奥の鎖骨に留まる。私は目をそらそうとしたが、
「私は……禁忌を犯したけれど、でも、私にだって許されていい時がある。今宵くらいは、天帝も大目に見て下さるだろうと思って。それで今日、逢いに来たの」
　思い詰めた娘の顔が哀れに思えてならず、頬を濡らす涙の筋をそっと拭い、そうして自分でも不思議なほど自然に腕を回し、彼女の肩を抱いた。すると娘は嬉しげに額をすり寄せてきて、まるで猫の仕草だ。
「こんな空模様でどうなるかと思ったけれど、それで石を使ったの。うまくいったわ。ねえ、おにいさま。石の銀漢も綺麗でしょう？」
「うん、そうだね……」
　夢のようだ。
　私たちはいつしか蚊帳の奥にいて、互いの熱に溶け合っている。
　青いやみの中で娘の白さが際立って鮮やか、背中をかき抱くごとに絡まる黒髪のこそばゆさをリアルに感じるのに、私はそれを夢だと思い込もうとしている。譫言のように娘が私を呼ぶ、それさえも意識のうちで耳を塞ぎ、聞こえないふりをして。
　娘とは今日初めて出逢ったのだ。懐かしさなどない。
　ああ、けれども娘の熱を、どうも知っている。久方ぶりに抱く体はもう成熟した大人のようである。
　否、そんな筈はないのだ。
　妹は十三の年で川に溺れ、死んだ。助けようとしたが、駄目だった。私は冷え切ってしまった体を抱きしめて、慟哭した。
　今、この腕の中にいる娘には体温がある。呼吸をしている。
　だが妹は今、墓の下にいる……筈なのだ。
　夏祭りの帰りだった。妹が着ていた浴衣の柄は何だったか。
　……撫子だ。娘の背に敷かれたうすものの柄も、また……
　私は娘の顔を見た。生きていれば、同じ年頃か。あれだけ愛しかった妹の顔を、今まで私は記憶の片隅からも追いやろうとしてきた。写真も残さなかった。思い出すのがただ辛かった。怖かった。努力の甲斐あって妹の生前の面影は曖昧だ。
　だが……生きていれば、この娘のように美しく成長していたに違いない。そう、幼い頃から、西洋人形のように愛らしかった妹は……封じたはずの妹のかんばせは。
　急に懐古を覚え、こみ上げてくるものを堪える。そんな私を見上げる彼女は、私の頬を優しく撫でてくれた。それから幸福な表情を浮かべて云った。
「来年も逢いに来るわね。その次も。さらに次の年も。だから、どうか忘れないで。大好きな私のお兄様……」
　どこかの国では、天の川は死者の魂が渡る橋なのだと云う。そのことが不意に脳裡に浮かんで、だが妹の顔を見れば、そんなことは瑣末に感じられた。
　早朝の清かな風に目覚め、はっとして跳ね起きた。辺りを見渡したが、妹の姿は見当たらない。
　やはり、夢……
　私は庭に出、体をうんと伸ばす。ふと、視界の端に何かが光る。芝生のそこかしこに立方体のかけらを見つけた。螢火は消えていた。

Milky Way of fluorite

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