　きんと冷えて大気が澄み渡る闇夜、吐く息が白く溶ける。崖の上の小さな灯りを目指して僕は駆け足になる。暖かそうな灯火は橙色の星、アルデバランのようだ。見上げると、ちょうど頭上に輝いている。
「アルデバランを始点に、リゲル、シリウス、プロキオン、ポルックス、カペラ、そしてアルデバランに結ぶ」
　時計回りに六つ星を結ぶと、夜空に大きなダイヤモンドの形が出来る。大六角形の内部にはベテルギウスが閉ざされる。
　ベテルギウスは変光星で、明るくなったり暗くなったりする気紛れな星。彼女の移ろいやすい心にそっくりだ。彼女は数多の男との恋火に燃えて、疲れたら僕の許で羽を休める。そうしてひととき僕の傍にいて、再び残滓に火が灯ると僕の許を去ってゆく。僕が全力で彼女を愛そうとすると煙たがられる。だから離れてゆくときも止めないし、戻ってこいと強制はしない。でも、僕にだって独占欲が無い訳ではない。一等星の六つ星を線で結びベテルギウスを囲うように、樹液に絡めとられ永久という時の牢獄に囚われる琥珀虫のように、彼女を閉じ込めてしまいたい。
　けれど、自由奔放なところが彼女の魅力だし、帰ってくるところが結局僕の許なら、それはそれで良いと思う。僕はあの子にとって空気みたいであればいい。在ることが当然すぎて、その存在自体の有難みも霞んでしまって、だけど無ければ生きていかれないほどかけがえのないもの、彼女の鼻腔を通って肺腑を抜けて、血の巡りに乗って全身に染み渡るもの。そうであれば良いのだ。
　家に着くと、彼女──ベテルギウスが疲れ切った顔をして待っていた。
「貴男が居ないと寂しくて死にそう」
　僕は彼女に責められ、小さく笑ってごめんと云う。

　暖炉の火にあたってポタージュを啜る。久々に彼女の作るものを口にした。味の薄いポタージュが冷え切った僕の体を芯から温めてゆく。ベテルギウスはとろんとした目で食事の様子を見守っている。
「美味しい？」
「うん。薄い」
「あら、ごめんなさいね。いつもは力を入れてお店にも負けない料理を作れるのよ」
　その力が発揮されるのは他の男達に対してであって、僕は彼女が得意げに話すほどの料理を食べさせて貰ったことがない。僕に作ってくれるのは塩だとか砂糖だったりが足りない、どこか抜けた料理だ。僕のことを思うとき彼女は気が抜けるのだと云う。ぴいんと張られた弦が弛むみたいに。味の薄いポタージュが本来の彼女の力量を表している。でも、僕は気張った料理なんかより、ずっとずっとこのポタージュの方が好い。

　食後、ソファに腰を下ろすとベテルギウスは待っていましたとばかりに体を寄せて甘えてきた。
「落ち着くわ。やっぱり、貴男は私のシリウスね」
　ベテルギウスは僕のことをシリウスだと云う。シリウスは冬のダイヤモンドを形作る六つ星の中でも一際明るい輝きを放つ星だ。彼女自身が男達を惹き付ける眩い星だというのに、包み込むことしかできない僕がシリウスだなんて。僕の気持ちを知っていてからかっているのか。シリウスのもう一つの意味を知らないのだろうか。僕はそう云われる度に不満に思って、抱き寄せようとした手を引っ込める。
「君はシリウスの由来を知っているの？」
　僕は問うた。
「知っているわ。光り輝くもの、という意味の希臘語が由来ね」
　ベテルギウスは僕の腕に安心しきった様子で凭れる。
「貴男は揺るぎない輝きを放つシリウスのよう。だから私は安心して甘えられるのだわ」
　僕はあどけない顔をさらすベテルギウスの耳朶にそっと唇を寄せて、云った。
「──焼き焦がすもの、と云う意味もあるのだよ」
　君の身を焦がす男になってみたいと、思ったところで叶わないと、はなから諦めを抱くのが僕だ。そんな僕に、シリウスだなんて。
　それとも、一縷の望みはあるのだろうか？
　抱いても、良いのだろうか？
　すると彼女は可笑しそうに肩を震わせた。
「貴男は、ダメよ。誰も、私ですらも、焼き焦がしたりしてはダメ」
「そうだよね……」
　僕は心持ちしょんぼりして、彼女の髪に鼻の頭を埋める。
「ねえ、結婚なんてしないでね」
　我が儘なベテルギウスは無邪気に小指を立てる。
「わかった。しない」
　僕は自分の小指を彼女のものに引っかけ、指切りをする。

　囚われているのは僕の方だな、そう感じた。六つ星を結び閉じて出来る檻は、彼女のために用意されたものではなくて、僕を捕らえるためのものだったのだ。　僕は決して、彼女と身を焦がすような恋は出来ない。だけれど、ぬるま湯みたいなこの曖昧な関係に満たされている。それでも良い。それで十分だ。

　天衣無縫なベテルギウス。君が僕を帰る家と定めるなら、僕はいつまでも待っていてあげよう。　いつまでも君のシリウスでいてあげよう。