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「あなた。ほんとに、にわしだったのね」
　男は頬を濡らした軌跡を拭ってから、童女に向き直る。すっかり放って置かれた童女は膝を抱えて、むくれた風を装った。本当はふたりの姿から一瞬たりと視線を逸らすことなど出来なかったのだけれども。
「あ……庭師と云うのは──」
　童女は遮って首を振る。
「このこがさいたの、あなたのせいよ」
　非難めいた云い方をしたのは多分に寂しさが募るせいだ。
「あたしの、おにんぎょうだったのに」
　この男がすることはわかっている。招き入れるのではなかったと後悔しても遅い。それに、玉中の人形だった少女の望みは夢で共有して知っている。二人はここから連れ立って行くのだ。庭からさらに先の先、外の世界へ。
「この子がお嬢さんの手に渡ったのは、悪い人が悪知恵働かせた所為なんだ」
「……しらないわよ、そんなの」
　本当は知っている。少女はもう人形じゃない。相応わしい主の許に帰るのだ。童女は相応わしい主ではなかったのだから。
「お嬢さんで良かった。大切に扱ってくれる子で」
「しらないったら、しらない！」
　別れの予感が強まって、受け入れられない童女は頑なに首を振り続ける。思い切り振りすぎたせいか頭がくらくらして、衾の上に突っ伏してしまった。
「お嬢さん、」
　男が額に触れると、熱がぶり返している。
「どこへなりといけばいいわ。あたしはびょうきだから、あんたたちみたいになれないもの」
　初めて病気のことを憎いと感じた。いいや──きっと初めてではない。両親やみんなに苦労をかけ、辛くはないと装うことで精一杯報いようとしてきた。だけど、何処にも行けない自分のために皆をも縛り付けている。それが悲しく、自由にならない体が悔しかった。
「──清らかで白いと云う意味の名を持つ国があったと、俺がさっき云ったのを覚えている？」
「……ついさっきのことだもの。わすれないわ」
「そこは遙か昔、暗闇に呑み込まれて滅びた国なんだ。白く眩い国だったが、今では荒野に闇月が浮かぶばかり──」
「それがなに？」
「闇月は俺の罪。俺は罪滅ぼしのために戻らなければならない。でもこの子がいなければ、贖罪の気持ちがあっても果たせない。虫の良いことを云っている自覚はあるけれど、それでもこの子が居ないのでは意味がないんだ」
「だからなに！　あたしのにわしといったのに、あたしをこまらせるあんたなんか、すきにすればいいじゃない！」
　真直ぐ眼をぶつけて肩を怒らせると、済まなそうに項垂れる男の脇から半透明の腕が伸びてきて、童女の頭を包んだ。
「ご──めん、なさい、ね。ゆる、して」
　呼吸をしたばかりの少女は辿々しく唇を動かし、男が李子に喩えた頬を撫でた。
　──あなたと見る夢は幸福でした。一緒に居てあげられなくてごめんなさい──
　声に出ない言葉が童女の心に響く。
　童女は、今度はゆるゆると頭を振る。
「しあわせなゆめをみたの、あたしのほうなの。あなたはとっておきだったんだから……」
　興奮したせいで熱はどんどん上がり、起きているのがさすがに堪えてきた。男の介添えで錦衾に潜り込んだ童女は、しかし去ろうとする彼らの姿を目に焼き付けようと眉間に力を込めて、今にも落ちそうな目蓋に抗った。
　去り際、男は童女の手にひと粒の実を握らせる。
「李子は手許にないけれど……これをあげよう。蟠桃と云う不老長寿の実だ。お嬢さんの病を治してくれるだろう。そのかわり、誰よりも長生きをすることになる。生きることは素晴らしいことだ。だけど同時に辛いことでもある。或いは辛いことばかりかも知れない。もし勇気があるならば──選ぶといい。お嬢さんの思う通りに」
　魅力しかない言葉のそこここに、どうしてか引っ掛かりを覚えた。すぐにも食べてしまいたい誘惑を畏れのうちに留め置き、たなうちの実を失くさぬようぎゅっと閉じ込める。
「よく……かんがえるわ」
　安堵してか男は小さくうなずくと、少女を外套で包み軽々と持ち上げた。
　円形の窓前に立ち、青い静謐に満たされた庭を見渡す。庭について男は無知だったが、来たとき同様の感慨を抱いている。足元の草地がまたたくのは、日中降り注いだ雨の置き土産だ。月照を受けてきらきらと、数え切れぬほどの星が眼下に押し寄せる。
　きれいね──と少女が呟くのを最後に、童女が庭師とその伴侶を見たのもそれきりだった。

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　心にさざなみを立てた夜以降、童女は病が夢に思えるほどの健康を取り戻した。両親の愛情に育まれて、大好きな庭を存分に駆け回り、自らが光と風になった。童女とは呼べぬ年頃になっても庭を愛し、花神の降臨を夢見て、今では手入れに余念がない。草木に細やかな気を配るとき、あの庭師を思い出さずにはいられなかった。己の罪だと云った闇月の地を、きっと同じように手入れしていることだろう。
　彼の残した蟠桃は、かけがえのない日々をくれた。ずっと怖くて食べられず、宝箱に仕舞っておいたのだが、そもそも童女には蟠桃が必要ないことを後に知った。永の患いは細胞が作り変わるための症状で、完全体となった以上熱に魘されることはもうない。移る病と云うのは方便で、童女はむしろ移された方だった。うつくしい思い出の夜、男の腕に抱かれて羽化した玉中人形のように、童女もまた生まれ直した。ただ、父母や親族たちに倣い、人を襲って血を啜ることにはどうしても馴染めなかった。どこへでも行けるようにはなったけれど、娘は箱庭に残る道を選んだ。蟠桃がなくても長生きはするが、永遠の飢えと渇きから解放されたのは紛れもなく蟠桃の効果だった。心穏やかに庭と接していられるのも、彼の温情のおかげだ。だからこそ、ここに残る価値があると思った。
「生きることは素晴らしいこと。同時に辛いことでもある──」
　雑草を摘みながら、男の言葉を反芻する。袂を分かちぬ親族らが、箱庭の外で非業の死を遂げたことを伝え聞く。最後まで娘に寄り添いたいと残ってくれた父母も、血の渇きにはとうとう抗えなかった。悪しき獣姿に成り果て、地に降るのを止めることが出来なかった。一族の特別な血をすこし分け与えられた侍女や傭人たちは、人よりは十年分長く生きたが、みな天寿を全うした。
　ひとりきにりになって辛くないと云えば嘘になるが、娘の涙でさえ庭は養分とする。──眠って、起きて、繰り返して。それでも、薄く開いた目に、一等先飛び込むのがこの素晴らしい風景なら、己の選択を悔いることはない。
　ひとつ国を呑み込んだ闇月の庭師に、たずねてみたい。或いは辛いことばかりかも知れないと云ったあなたには、今でも悔いがあるのかと。
　最後に見た彼の瞳は月色だった。月は夜の象徴、それを瞳に宿す彼は夜そのものだったのだろう。
「あなたはまだ夜を映すの？　あたしは光を見ているわ」
　娘は顔を上げて日の斑を浴びる。吸血鬼の身には、すこし辛いのだけれど。
　だって、ここがあたしの世界。ここより他にうつくしい場所があるとは思わないし、あったところで比べる必要はない。
　娘は本当にこの庭が大好きなのだ。
　でももし、再び彼に会うことがあるなら──
「まだ後向きのようなら、張っ倒してやろうかしら。あたしのとっておきを奪っておいて、許せないものね」
　だから、そうはならないよう祈る。
　常闇の国で額を合わせるふたりを。
　見惚れるほどうつくしかった姿を。
　ひとりきりの庭で、娘は花咲む。