　洪戒の祖母（以下、老大娘と記す）の家で蒼瑾と翠緑玉が厄介になっていた頃のこと──
　その家では、門前で小吃軽食を売って日銭を稼いでいた。大抵、売るのは煎餅である。ここでの煎餅とは小麦粉を水で練って鉄板で焼いた所謂クレープのようなもので、やわらかい皮に具をのせ巻いて食べるのだが、中に挟む具は地域や家庭によって様々だ。老大娘の煎餅は水飴を塗って食べる。これがおやつにちょうどいいと好評を得ている。
　翠緑玉は客の求めに応じて煎餅を焼く。その横に蒼瑾がどっかりと座って、少し不機嫌な面持ちで、焼きたての煎餅に水飴を塗りたくる。
　──いつもは翠緑玉が一人でする仕事だが、最近、翠緑玉の格好を珍しがってちょっかいを出す輩が現れはじめたせいで、蒼瑾は傍で見ていないと気が気でない。
　翠緑玉は面紗で頭から肩までを覆い隠している。覗き込まなければそのかんばせを目にすることは叶わないほど目深に被っている。翠緑玉の美しい姿を衆目に晒したくない蒼瑾が云いつけて被らせている。出来れば外にだって出したくないのが彼の本音だが、老大娘の手伝いについては翠緑玉がすすんで申し出た。本来煎餅を売るのは老大娘の仕事だったのだ。
　蒼瑾は水売りの仕事をしており、働いて得た金を老大娘に渡している。だから何もしなくてよいと云ったのに翠緑玉ときたら、
「わかさまがご恩返しをするなら、わたしもそのたすけがしたい」
　などと云って老大娘の仕事を手伝うようになったのだ。老大娘はそれをいいことに雑事をあれこれと押しつけている。
　蒼瑾にとって極めて不愉快なことだ。翠緑玉が外に出掛けるきっかけを与えてしまった。そしてその頻度もこの頃増えている──増えすぎているのが蒼瑾は気に入らない。
　水売りの仕事は日が高くなる頃には終わるので、今日もさくさくと己の担当分の仕事を片付け、翠緑玉の傍にいた。見張りである。
　翠緑玉が焼きたての煎餅を寄越してくると、蒼瑾は水飴の入った壺に刷毛を──かなり乱暴に突っ込み──引き上げて、丸い煎餅の表面に雑な円を描く。それを二つ折りにして無造作に紙で挟む。水飴をたっぷりと含んだ煎餅、客が噛んだ瞬間だらだらと雫が滴り落ちる。
　水飴の塗りすぎである。手をべたつかせず、食べやすいようにと紙で包むのにまるで意味がない──
　手や袖まで汚れて客は物云いたげな様子。が、蒼瑾には聞く気などない。
「いくらなんでも塗りすぎやしないかい」
　客が文句を口にすれば、蒼瑾は無言で目を眇める。彼がすっと目を細めただけで客は畏縮し、煎餅代を払ってそそくさと去ってゆく。そも、この辺りでも珍しい琥珀色の虹彩を目の当たりにし、加えてこの世のものとは思えぬ美貌を持つ蒼瑾である。面と向かって平気でいられるのは彼の家族くらいなものだ。
　蒼瑾がいたせいか、翠緑玉に絡んでくる輩はこの日現れなかった。日が傾いてきたので店仕舞いとする。

　片付けをするそばから、翠緑玉が彼の触れた痕跡を拭うので蒼瑾は僅かに眉を集める。が、それは彼が悪い。荒っぽい動作で塗るものだから蒼瑾の手は飴塗れである。彼は頓着していないが、そんな手で片付けをするのだからかえって掃除の手間を増やしている。
（……先に洗うか）
　臉盆架せんめんだいの前に立ち、洗う直前、蒼瑾はなんとなく思い立って己の手を舐めてみた。
　甘い──
　想像以上の甘味に顔を顰めてしまう。甘ったるいのは苦手だ。胸がむかむかする。
　その様子を見ていた翠緑玉は何故か、湖水のような瞳をきらきらと輝かせている。
「……」
　蒼瑾は戯れに手のひらを差し出してみた。すると翠緑玉は嬉しそうに花顔を綻ばせ、両手で彼の手を包み込むと水飴の付着しててらてらした部分にくちびるを宛がってきた。
　広い手のひらの上を淡く色付いたくちびるが這ってゆく。舐めるのかと思ったのに彼女はちらりとも舌を見せないで、くちびるだけで器用に水飴を掬っている。やわらかな感触が薄い皮膚の上で蠢いて、触れあう場所から粟立つような感覚が迸って、蒼瑾は変な気分になる。
　音も立てずくちびるを押しつけていた翠緑玉だったがやがて満足したか、上向いたかんばせには幸福そうな笑みがとろんと浮かんでいる。
　翠緑玉は甘いものが大好物なのだ──
　何がいいのかよくわからんと蒼瑾は思う。ただ、少し欲が湧いてきた。
　蒼瑾は壺に手を突っ込み、指先にたっぷりと水飴を絡める。そしてその指を翠緑玉の鼻先に突き出した。
　翠緑玉ははじめ目を丸くしていたが、許されているのだとわかると山桜桃の花弁のようなくちびるを少しだけ開き──先端を含んだ。
「……っ」
　生温かな肉が指先の水飴を丁寧に舐め取る。指と指のあわいに垂れ流れた水飴を追って、小さな紅い舌先が伝ってゆく。たまに漏れる水音が耳について、殊更蒼瑾を欲情させる。
　口腔を必要以上に潤わせる唾を飲み下す。その音が伝わっていないかと冷や冷やしながら、
　心音が空気をふるわせていやしないかと不安になりながら、
　己の瞳が孕んだ熱に彼女が気付きやしないかと怖れながら、指先に与えられるほんの僅かな刺激に身悶えそうになるのを必死で堪えている。
　己の懐に小さな頭がある。腕の中に捕らえてしまいたい衝動に駆られる……
　──いや待て待て。翠はただ好きなものを味わっているだけじゃないか。
　なんとも幸せそうな翠緑玉に対し己がどれだけ浅ましい考えを抱いているのか、その表情を見ているうちにまざまざと思い知る。
　冷静さを取り戻した蒼瑾はゆっくりと指を引き抜いた。
　指の先端に糸が曳く。翠緑玉のくちびるも少し濡れている。そのなまめかしさも今の蒼瑾には毒だ。
　名残惜しそうに首を傾げている翠緑玉に背を向けて、蒼瑾は臉盆架の前に戻る。臉盆を満たす水に両手を浸し、ごしごしと揉んだ。身の内に湧いて今にも理性を奪わんと鎌首をもたげる色欲を必死に濯ごうとする。
　こうした感情を抱いているのは己だけで、翠緑玉が同じように自分を愛してくれているのか、蒼瑾には自信がなかった。一途に想ってくれていることはわかる。だが、彼女はあまりにいとけなくて、それ故にこの子が向けてくる慕情は男女の理の枠外のものに感じられる。蒼瑾の方は翠緑玉をかけがえのない存在として慈しんでおり、それは大切な家族としてであり、妹のようであり、
　そして、女だ──
（親愛じゃなくて）
　蒼瑾は恨めしそうに翠緑玉を盗み見る。
（俺がこの子を欲しいと思うのは、いけないことだろうか）
　水飴はすでに落ちているが、手が赤くなっても擦り続ける。
（……いけないことだ）
　染みついた劣情を、清冽な水の中にすべて溶き落としたい。
　蒼瑾は後悔していた──
（戯れにしては、過ぎた）
　そっと隣に立った翠緑玉が、手拭きを差し出してくる。
「わかさま、みずあめおいしいね」
　人の気も知らないで、よくもまあにこにこと笑っていられる。蒼瑾は盛大に溜息を吐きたくなる。
　だが、この表情を前にすると己の疚しさだとか苦悩とか、面倒なものすべてが彼方へ浚われてどうでもよく思えてしまう。
「……そうか」
　蒼瑾は微笑を返す。
　ゆるんだ口許に滲むのは、諦念だ。

　しかし、まさかこの戯れを翌日も翠緑玉にねだられ、以降儀式めいて幾度となく繰り返されることになろうとは──
　この時の蒼瑾には、知る由もない──

思葉