「この子と仲良くしてあげて」

　義姉が頼まなければ、村の子供たちは阿宵のことを輪に加えようとは思わなかっただろう。余所者の子であり、活発とは真逆の質を持つ阿宵を疎ましく思いこそすれ、歓迎する気配など白沙村に生まれてこの方なかったものを──この頃、明媚は村長の息子に云い寄られていて、求婚に応じないのは義弟の内気な性格を案じてのことと皆が知っていた。明るく気立ての良い性格の明媚には村民も好感を持っていて、村長一家との婚姻を機に余所から来た玄家を晴れて白沙村の一員と認めようと云う空気が醸成されつつあった。村長の顔を立てたい大人たちは、子供たちに阿宵と仲良くするよう云いつけた。明媚の懇願が後押しとなり、ついに子供たちの輪に混じることが叶った。まだ四つであった宵に斯様な忖度があったなどと思いも寄らない。村長の末子──子供たちの中では最年長の少年が兄貴分として面倒を見てくれるようになり、彼の仲間たちにくっついて山海を駆け回る水面下では、明媚の縁談が着々と纏まっていった。毎日泥んこになって帰ってくる義弟に安堵し、玄一家の許を離れる決心がようやく着いたのだ。
「姉さんね、お嫁に行くの。阿宵にはお友だちが出来たから、私がいなくても大丈夫よね？」
　阿宵には他家に嫁ぐことの意味は解らなかったが、明媚が安心するだろうと思って頷いた。彼女はほっとした様子だった。
　しかし、大人には溌剌に見えるであろう着衣を泥塗れにする行為が、阿宵にとって必ずしも楽しいものとは限らなかった。仲間内では最年少で動きも鈍く、童女のような姿態は泥団子のいい的になったし、ぶつけ合って楽しむものを厭うのは女々しいなどと云われては、吃驚して涙ぐみ皆を白けさせた己が悪いように思えた。気にした母は他の親たちに意見を仰いだが、
「男子の遊びは本来そう云うものですよ。あなたのところはずいぶん大人しいようだから心配でしょうけどね。あたしから見ればやんちゃなくらいでないと却って安心出来やしませんよ」──と暗に窘められたと云う。母と姉の会話を密かに耳にした阿宵は、やはり皆の云うようにあれが〈普通〉なのだと思った。だから、かくれんぼで毎回鬼役を引いて誰一人見つけられず──皆が示し合わせて帰ってしまったのだけれども──途方に暮れているところへ母の迎えが来ても、決して不満を吐かなかった。だって皆が云うには楽しい遊びのはずなのだ。楽しめぬ己が変で、変なままでは義姉が困ってしまう。
「今日は、楽しめた？」
　母に聞かれると、皆がそうしたように、目一杯笑って頷いた。すごく堪えたから泣きそうな顔には見えなかったはずだ。母は湯をたっぷり使い、汚れた体を洗ってくれた。熱すぎぬよう調節された湯は、頭の泥を濯いだときにこっそり流した涙を上手く誤魔化してくれた。

　水甕の中に放り込まれたときもそうだ。各戸にある貯水用の大甕は阿宵の背より高く、母の腰のようになめらかな形状をしていた。これに子供が入って蓋をして、十数えたら脱出すると云う趣旨の遊びだ。阿宵が気後れすると有無を云わせず担がれて、真っ黒な底に落とされた。水嵩は直立状態で首から下が浸かる程だったが、内壁は反り返っている上、阿宵の背をゆうに超える水甕、口には背伸びしたって届かない。頭から逆さに落とされた時点で恐慌し思い切り水を飲んでしまった。楽しむ余地などあるわけがない。激しく音を立てて藻掻く様に兄貴分は慌てた。体を引っ張り上げようとするが暴れるせいで上手くいかない。焦燥は皆に伝播した。笑って眺めていた子供たちは恐怖で浮き腰になっていた。偶然にも甕が割れたおかげで阿宵は助かったが、兄貴分は流石にまずいと思ったようで、誰にも口外するなと目を三角にして皆に誓わせた。怖い思いをしたのは阿宵なのに仲間の誰一人として謝らなかった。そればかりか、気まずさを払拭するかのようにわざと巫山戯た態度に徹しているようだった。
　──ちょっと危なかったよな。次は別の遊びにしようぜ。
　──そうだな。かいさーん。
　兄貴分が家まで送ってくれた。出迎えた母に「今日は浜で遊んだんです」と告げた。濡れて帰ることもあったので疑わなかった。兄貴分はまた明日と云った。今日のことを告げ口すればどうなるかわかっているだろうな、と云う言外の圧を感じた。報復を考えただけで怖ろしくて明日など来なければいいと阿宵は思った。何も知らぬ母が手を握ってくれるので、そんな風に願うことは誤りだと咄嗟に羞じた。

　女たちには甘えられず、でもどうしようもなくもどかしく、その晩は父の床に潜り込んだ。寝入る背中は大きくて磐のようだ。そのどっしりとした磐におでこを押しつけ、父と経た時を思い返す。子供たちと過ごすようになって父との時間が減ってしまった今は、かつての一時を懐かしむほどに寂しい。輪の外から子供たちを眺めていたときは興味もあったし、楽しそうな様を羨ましくも感じたけれど──実際はそういいものでもなかった。否、いいものでもないと感じることの方がおかしいのか……
「──宵」
　寝ていたはずの父が声をかけてきた。体の向きは変わらぬままに、しかし察したのだろう。明朝の仕事についてくるかと誘われた。
　阿宵は首を振った。父が気に掛けてくれている。その言葉で十分だった。
「あのね。宵、父さまみたいになるよね」
　仕事をする父の姿には、幼心に尊敬の念を抱いた。父のように頼もしい男になれたなら母も明媚もきっと安心する。
　そうならねば、いけないのだ。

　　　　＊＊＊

　三日前、珠楼池──
　妖鳥と遭遇してからと云うもの、蒼瑾の懸念はあの鳥に注ぎきりだった。彼の鳥を見た時に覚えた既視感を、一度は気のせいと思い込むことにした──と云うのも、この頃蒼瑾は新しく覚えることに関しては問題ないが、蒼玦に拾われる以前の事柄に対して健忘が進行しており、記憶遡行の途中で目的すら失念してしまうと云ったことが増えてきた。それについては本人もぼんやりと自覚があり、思い出そうとするだけ無駄だと諦め癖がついてしまった。だが妖鳥のことはどうも気懸かりで、暇を見つけては珠楼池の沿岸を捜し回っている。
　目立ちたくないので供は付けず、英覇対策の変装として蒼玦に買い与えられた帽子を目深に被っている。おかげで支障なく捜索に専念出来たが、結果は無収穫。心身草臥れた蒼瑾は少し休んでから帰ることにした。午を回り腹も空いていた。露店で軽食を求め、人気のない岸辺を選ぶ。欄干に凭れて一息吐き、帽子を取ると蒸れた毛髪が一気に蒸発するようで気分が良い。軽食の包みを開けば、好物である香辛料の匂いがたちまち鼻腔をくすぐり、陶酔感が増した。その状況で、まさか欄干の根元を伝って蒼瑾を陥れる手が迫るなどとは思わない。全く不意を突かれ、口に運びかけた軽食と帽子を手落としたことを気にする間もなかった。水中へと引き摺り込まれた瞬間、蒼瑾は仰向けの格好で強い陽射しを目に受けた。飛沫を上げて攪拌された光はチカチカと明滅し、やがて視界すべてを占める光量となった。突然の刺激に思考は彼方、ぽっかり出来た空白には、開かずの庫に仕舞い込んだものの一部が映し出される。それは己がうんと小さかった頃の記憶と情感だった。映像は律儀にも時系列を追って再生され、意見する間もなく見せつけられる様に、蒼瑾はだんだんと冷静になって──そして、うんざりする。
　水底に沈むにつれて情景も暗くなってゆく。体表を撫ぜた泡はとうに体を離れてしまった。だと云うのに一向に浮かび上がらぬ体に焦燥すら起きず、ひとえに己の情けなさに落胆する。
　生まれついた質は、記憶を失い別の環境を与えられようと、簡単には変えられないようだ。定められたものを覆すことは、例えば天地をひっくり返すくらいに実現不可能で、決められた枠組みから外れたとしても何か見えない矯正力が働いて元に戻る。
　人付きの不得手は幼少期からの筋金入り、誰かの助けがなければ他人と繋がりを持つことも難しい。どうにか持てたとして、そのあとは他人に合わせることに難儀した。こうした性質に生まれついたから何もかも満足に出来ない。それが己の上限──定めなのだろう。
　──そんな定めがあるとも知らず、子供の頃はずっと頑張っていたように思う。今の自分は阿宵に劣る。英覇のことにしても、我慢に徹すれば親たちを困らせることはなかった。劉家の面々に迷惑を掛けることもなかっただろう。
（だけど──）
　蒼瑾は虹彩に銅色の閃光を迸らせる。くらやみで体表を覆うと、陰気に触れたせいか足首を掴む気配がさっと引いた。揺らいだ澱の中を逃げていく影は魚のように見えた。
　異能力はこうした状況には向いても、社会生活では発揮が許されない。それに、力を使って大成しても保護者たちは喜ぶまい。洪戒などは、こと異能力に関しては「均衡を取るためには持てる者が持たざる者に合わせるべき」と云う持論がある。そしてそれは異能力者間の不文律だとも。だから異能力者は力のことを伏せて生活する。持たざる者には持たないなりに問題を解決する力が備わっていて、それを過度に干渉すれば両者の均衡を崩してしまう。持たざる者が大多数を占める方壷で、くらやみを用いて目立とうとするのは不文律を犯す行為だ。蒼瑾の異能力は性質上危惧して然るべき類のものだから。
　──ともかく、くらやみはあてに出来ない。保護者たちの望む真っ当な形で恩を返すには、やはり人との交渉は避けがたい。洪戒は薬舗を構えて地域に貢献している。あの実父ですら、家族のため白沙村に根を下ろした。それぞれが異能力を主とせぬ方法で社会に適合している。
（それなのに俺はこんなことで躓いている）
　異能力を差し引いてしまえば本来の自分など実に見窄らしいものだ。だから村の子供たちに虐められたのだし、英覇には安く踏まれた。ここで幼少時の記憶が蘇ったのも、努力したって根本は変えられないのだから潔く忍従しろ──と何者かに皮肉られているような気さえする。強者を優遇するよう作られた世の仕組みを、一個人の力で覆すことなど出来やしない。だから弱者から寄り縋るよりないのだが、そうと理解していても蒼瑾には思い切れない。その構造を作ったのは己ではないし、生得にしても自ら望んだものではないから。

　──くすくす。
　可笑しなことに水中にあって笑声がする。蒼瑾が声の方に顔を向ければ、先程逃げていったはずの魚たちが戻ってきており、遠巻きに周囲を旋回しながら、
「浮世が辛いんなら、こちらの住人におなりよ」
「美しい坊や。あたしたちの仲間にしてあげる」
「馴れたら住みよい場所よ。楽しいことばかり」
　なんと人語で甘言を吐く。
　よく見ると魚ではなく──これは昔見たことがある──娃娃魚オオサンショウウオだ。喋るときの表情や動きが人間のそれで、平たい顔が人面のようにも見えてくる。ちなみに娃娃とは赤ん坊のことだが、捕らえたときに発する声が赤子の泣き声に似ることが由来だとか。連中が発するきいきい声は赤子よりも喧しく、まるで崔夫人が三人に増えたみたいに騒々しい。
　この三匹は怪異の類か。人間である蒼瑾を相手に仲間とはどう云う了見だろう。
　蒼瑾の怪訝を見抜いた娃娃魚たちは顔を見合わせ、けらけら笑い出すのだった。
「可笑しなこと。妖に魅入られる覚えはないって顔してるわ」
「人よりも我らの質に近いと云うのに、自覚がないようねぇ」
　娃娃魚は器用にも小さな指を動かして蒼瑾を指すと、
「お前が今、水中で呼吸をしていられるのは人が異能力と呼ぶ力のおかげよね。お前は陰気を纏うことで水中から自分を切り離している。あたしの目には直ぐそこに姿があるように見えるけれど、薄皮一枚の厚みで異なる空間にいるような感じがするわ。まるで鏡越しの像みたい。こちらに実体があるのは我々だけで、お前は向こう側の虚像」
　くらやみは想像力によって様々な状況に対応が出来る。陰気を通じて現在居る場所から別の場所に転移することも出来る。蒼瑾が思いついたのは呼吸が出来る空間を確保することだったので、くらやみで水中を遮断するための部屋、或いは水を通さない膜を作った。異空間を渡るときの応用で、水中から己を切り離すという説明は云い得て妙だと感じた。このまま異空間を渡って地上に転移してもよいのだが、相手の目的が何か判らない上に力を量ることも出来ないでは下手に危険を持ち越すことになる。だから敢えて姿を晒し、対峙の構えをとった。
「なんて便利な能力かしら。──ねえ、それって元々はどうやって得た力だと思っているの？」
「あたしたちは永く蜃気を食んで妖力を得た水精よ。蜃気はこの島の心臓部、お前たち人間が神域と呼ぶ場所から流れて水や大気それを取り込む草木や生物──遍く全てに溶け込んでいる。この方壷に生きる全てのものそれらを操る素質を持っている。力を発現するかしないかの違いがあるだけでね。異能力者だってあたしたちと同じような過程で妖力を得たんじゃあないの」
「人間の中には、交配によって力を継承させる者もいるけれどね」
「これでお前とあたしたちが似ていると解ったのではないかしら」
　蒼瑾は唖然とする。妖怪の類と異能力者の根源が、根差す土地にあるなどとは初耳だった。
「お前は特に異質だわ。異能力は様々とは云え──例えばこの土地の者で挙げるなら、天眼児──あれは千里先のものを見透す力よね」
「あたしたちからすれば取り立てて騒ぐほどじゃないけれどねぇ」
　洪戒の名が挙がるも、秒で腐された。本人が聞いたら文句を垂れそうだ。
「人間離れしている点では天眼児と同様。でも水精の我々により近い気配を感じるわ」
「それにね、あたしたちの関心はどちらかと云うと異能力よりも容貌の方にあるのよ」
　容貌──また、容貌か──。
　外見のために嫌な思いをしたばかりで、蒼瑾の眉間には穏やかならぬ皺が刻まれる。
「お前ほど造形の美しい人間は滅多に見ないわ！　なんてあやの細かな膚なのかしら」
「あたしたちの主人は美しいものがお好みなの。もともとがお美しい御方ですからね」
「お前を可愛がることで我らは更なる徳を積み、より御方様に近づけることでしょう」
　娃娃魚たちの両目と口とが弓影に歪められ、蒼瑾は身震いする。
（こいつら、俺を食む気か）
　くらやみで作った膜の内側へ一旦身を引くと、娃娃魚たちは膜の表面にべたべたと張り付き、中を覗いてくる。
「あら、そっちに逃げるなんて卑怯ね」
「姉様、この膜すごく冷たい。見て、手が冷気で張り付くの。氷の壁みたいになってる」
　周囲の陰気を集めて膜を強化したのが功を奏し、連中の声が少し遠退いてほっとする。
　それにしても似ているだなどとたまったものではない。人間の蒼瑾とどこをどう比べたのか甚だ謎だ。本来は捕食される側のくせに、この娃娃三姉妹──人語を解すだけならまだしも、人間を取って食らわんとするなど最早怪魚ではないか。
「怪魚なんて失礼ね。それに食べるんじゃないわ。方々のような美しい光輝を纏うのよ」
「お前のような妖童と結ばれて気を貰えたら、人間への変化を体得出来るかも知れない」
「美しい肉体が包むのは美しい魂よ。花の蕾と一緒ね。きっと素晴らしく変化出来るわ」
「徳を積みたいの」
「積ませてよ！」
　耳を貸すのは時間の浪費と判断した蒼瑾は、水中からの脱出を図る。が──くらやみで遮断したはずの体表に水の感触を得て、彼の顔色がさっと変わる。
　膜にとてつもない圧がかかっている。そして、内側にはじわじわと水が滲出し始める。
「お前の異能力は変幻自在──まるで水のよう。水もまた同じく陰に属するものなのよ」
「似ている、と云ったでしょう。あたしたちにはこの膜を破れるの」
「水中の陰気を操る上で水精のあたしたちに敵うはずがないわ！」
　娃娃三姉妹が三日月形の口でけたけた嗤うのと同時に、くらやみの膜に亀裂が入る。蒼瑾の体は再び水中に投げ出された。慌てて陰気を集めるが、三姉妹はくらやみの発動を阻止せんと水を縄のように操って蒼瑾の首を絞める。
「──ごほっ！」
　とうとう堪えきれず、溜めていた息をほとんど吐き出してしまった。
「大丈夫。こちら側の方がよっぽど馴染むわ」
「共に暮らせる体にしてあげる」
　水甕の中で溺れた時と全く同じ状況に嫌でも恐怖する。頭には水面に浮上することだけしか浮かばず闇雲に藻掻くので精一杯。濁水に視界を遮られ、切迫した蒼瑾には陰気を凝縮させる余裕がない。
「まあ強情だこと。少し振ってみましょうか」
　三姉妹が手を振る。蒼瑾は水縄に締め付けられた格好のまま全身大きく振り回される。もう上下がどうなっているのか解らない。その上淤泥によって目指すべき水面を完全に見失った。回転の最中ごぼごぼと最後の息を漏らしてしまい、次第に意識が薄れてゆく。
　ここで気絶したら最後な気がする。瞼をぎゅっと閉じ合わせると、目頭に力を込めた。
「やっと大人しくなったわね」
「今のうちに作業しましょう」
　娃娃三姉妹は蒼瑾が気を失ったと思い込んでか水縄の呪縛を解き、寄って集って彼の着衣を脱がせにかかる。襟を掴んで乱暴に上衣を剥く。下に着込んだ胴着もひん剥かれてしまった。残るは襯衣はだぎのみだが、一旦三姉妹はそれぞれの背中を押し合い始めた。蒼瑾が薄く目を開けて見ると、姉妹の背中に何やら白濁の靄がかかっている。ぬらついて見えるそれは異能力によるものと云うより生理的な現象に思えた。背中に分泌された白っぽい粘液のようなものを互いに手で削ぎ落としている。
「あたしたちの妖力が籠もったこれを塗れば、水中で暮らせる体に生まれ変わるわ」
（冗談じゃない‼）
　蒼瑾は遠退く意識を懸命に引き戻す。水縄の束縛から解放されたときにありったけの陰気を吸収しておいたものを、今この時解き放つ。彼を中心に球状の波動が起こり、放出された黒い冷気は娃娃三姉妹の周囲もろとも氷漬けにする。

　氷球はずしりと重たい音を立てて水底に沈み着く。球の中心には蒼瑾の息衝きだけがある。
　後だから思うことだが──湖に転落したとき、さっさと異空間に逃げてしまえば良かった。怪魚に付き合わされたのも、気を抜いた己に落度がある。
（反省は帰ってからに……しよう……）
　蒼瑾はすっかり疲れ果てて、凍り付いた体のまま深い眠りに入る。

探花抄Ⅳ〈四〉沈紅