　　　　　＊

　蒼瑾の房がある東廂房──その戸口にて。訪れた人物を、蒼瑾は驚きと共に迎える。
　気まずげな顔をした彤茜がなんと水仙を寄越してきたのだ。特別な意味もなくこんなものを差し出すような相手ではない。だが、彤茜から祝われるなんて予想だにしないことだ。
「誰かに頼まれた？」
　彤茜の手をじっと見たまま、蒼瑾は訊ねている。
　彤茜は考える。翠児からは、あくまで彤茜からの贈り物として渡せと希われた。直接渡しに来られない理由を蒼瑾に覚られたくないからだ。
「俺からだよ」
　鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする蒼瑾だったが、胸許に押しつけられた花を戸惑いながら受け取る。
　彤茜との関係を思えば、こんなものを受け取れる立場にない。どう云う心境の変化なのか、蒼瑾には解せない。毒でも仕込んでいるんじゃないか──との疑念が一瞬過ぎるが、盛るならもっと早くに叶えられたはずだ。
　難しい顔をして考え込む蒼瑾に、彤茜はつい本音を漏らす。
「誕生日くらい喜べよ。それくらいでお前にむかついたりしないし、難癖つける気もねえよ」
「……だけど、俺は」
　俯いてしまった蒼瑾を見て、彤茜は舌打ちをする。
「遠慮のつもりなら、鬱陶しいって云いたいんだよ」
　ぶっきらぼうに云うと彤茜は踵を返す。蒼瑾はハッとして、慌ててその背に呼び掛けた。
「茜」
　首だけで振り向いた彤茜と視線が交錯する。引き留めたものの躊躇して、言葉が詰まる。
「あ、その」
　口籠もる蒼瑾を、彤茜はじっと待つ。何かを伝えたくて必死そうな顔付きだから。
　蒼瑾は意を決し、唇を真一文字に結ぶ。これでも、茉莉や蒼玦たちにそうするように笑みを湛えている──つもりだった。
「ありがとう──茜」
　瞼を伏せ、金盞銀台に鼻先を寄せる。甘く、透明感のある馥気が鼻腔を通り抜けてゆく。
清らかなよい香りだ。繕って吊り上げたはずの口端が自然と綻んだ。
　ああ、こいつはこうやって笑うんだ──感情の麻痺が長く続いた彤茜にもわかる気がする。心の受け渡しに慣れない者が見せる切なげな表情──
「飾らせてもらう」
　白いくびを大事そうに支え、睫毛を細かくふるわせている。どうやら思いがけぬ相手からの贈り物に本気で感動しているらしい。彤茜は首の後ろがむず痒くなってポリポリ掻く。別に、いい格好がしたいわけではないし、蒼瑾の反応を見ていたのは本来ならば翠児のはずだった。この場にいるのがひどく場違いな気がして居心地が悪い。
　……それに、変な気分にもなってくる。花の輪郭を暈かすほどの白皙を改めて意識したとき生花の瑞々しい芳香が眼前の少年から放たれているような気がしてきた。蒼瑾に手渡すまでの間彤茜の手の中にずっとあった、その香馥が──

　彤茜の心臓が跳ねる。おかしなところにばかり目がいってしまう。朱唇から漏れた白い霞が上昇し、目許の薄い皮膚を淡くけぶらせる。幽光を湛える琥珀色の瞳は、曇った窓越しに見る月魄を思わせた。金の眸子、白銀の容かんばせ──寒気の中に背筋を正して立つ少年が、彼の手にある水仙の凛とした風情と重なる。
　雪中花の異称をも持つ花の清澈が、これほどまでに馴染む男が他にいるだろうか。なんだか目が眩む。
　ふと風が渡る。癖のある前髪が白磁の頬をなでる。髪を切ってからひと月と経っていないが伸びるのが早いようだ。前髪の先が瞬きをするたび睫毛に絡まる。もどかしさを覚えた彤茜は絡まりを解こうと無意識に手を伸ばし──
（どうかしてる）
　ふれる寸前に我に返る。行き場を失いかけた手は慌てて蒼瑾の胸を押している。
「用は済んだから。中に戻れ。さ、寒いだろ」
　目を瞠らせる相手に対し顔を見られぬように伏せて、強引に房の内側へと押し込む。
蒼瑾の訝しげな表情を、閉じてゆく扉の隙間から認めた。
「何なんだよ」
　内側からの声には耳を貸さず、彤茜は逃げるようにその場から離れた。

　　　　　＊

「お誕生日おめでとうございます」
　間食に点心を運んできた茉莉が、茶の用意を整えた後で恭しく包みを差し出してきた。
「崔夫人に招かれて、かの私塾に通われるのでしょう？　それなら文房具がいいかなって」
　包み紙を解いてゆくと携帯用の筆記具が一揃い。蒼瑾ははにかんだ笑みを見せる。
「ありがとう。大切に使う」
「えへへ……」
　念願の笑みを引き出すことが出来て、茉莉は内心蕩けている。
「そう云えば、翠児はいないんですね」
　洗濯の後、はぐれた翠児がどこかで寄り道を食っていたとしても、さすがにもう戻っていておかしくないはずだ。
「……洗濯当番、一緒に帰ってきたんじゃないのか？」
　蒼瑾の誕生日を祝う目的を達成して余裕の生まれた茉莉は、ここでようやく心配し始める。
「あの子ったら仕事を放ってどこかに行ってしまって。てっきり一人で帰ってきているかと」
　蒼瑾の面が僅かに陰って茉莉は焦る。侍女について心配性の蒼瑾が、翠児を捜さずに戻ってきた茉莉を詰るのではないかと思われたからだ。居もしない房内を見渡し、茉莉はオロオロし始める。
「ん？」
　扉の隙間から小さな人影が覗き込んでいることに気付く。逆光なのに眼鏡の鏡面が不気味に浮かび上がる。
「わかさま……」
　遠慮がちに呼び掛ける翠児を認めて安堵の色を見せたのも束の間、蒼瑾は眉間に皺を作る。
「お前、仕事をほったらかしたんだってな。こっちへおいで。躾けてやる」
　俯いたまま、翠児は中に入ってくる。
「じゃ、じゃあ私は夕餉の支度があるのでこれで……」
　蒼瑾の怒りが飛び火しないうちに茉莉は撤退する。

　真向かいの椅子に縮こまって座る翠児を、蒼瑾は見下ろす。桂皮色の厚い前髪が邪魔をして眼鏡の隙間を窺うことは叶わない。しょぼくれて、瞼を伏せているのかどうも判らない。
「──それで？　お前がさっきから大事そうに持ってるそれはなんだよ」
　腕組みを解き、溜息交じりに問いかける。
「みずさし」
　翠児はおそるおそると云った動作で捧げる。
「おはなをもらったでしょ」
　その声音にはどこか期待のようなものが滲んでいる。
「ああ、茜に水仙をもらった。なんだ、用意がいいな」
　蒼瑾は水差しを受け取ると、中には水が入っている。彤茜から贈られた水仙を姿のよい向きに活け、床の側卓に飾る。それを、床の縁に腰掛けて気分好さそうに眺める。
　間接的ではあったが蒼瑾にちゃんと水仙が渡ってよかった。翠児は襟巻の下そっと微笑む。
「水仙のこと、もしかしてお前が云ったのか？」
　どうしてばれたのだろうと、翠児は小首を傾げて誤魔化す。
「俺に縁のある花だってことを誰かに吹き込まれでもしなきゃ知り得ないだろう。特に茜は」
「わかさまみたいっておもったの」
「俺みたいだって？　この花が？」
　何故か肩をふるわせて笑い始める。
　翠児の中に青空の映る水溜を踏んづけられるような悲しさが沸き起こる。中洲に咲く水仙のしゃんとした茎と、伏せがちの白い容が蒼瑾のように見えた。ほんとうのことだ。
「おかしくないもの……」
　か細い声で訴えれば、蒼瑾は小指で目尻の雫を拭う。
「ごめん。そう云うつもりじゃないんだ──」
　偶然すぎて可笑しくなった、と彼は云う。
「洪爺が父母の過去をまた見せてくれた。母は父に水仙を贈っていた。容姿が似ていると云う意味なら、母にこそ贈られるべきだ」
　洪戒の天眼越しに垣間見た父は黒くて輪郭しかわからなかったが、六尺１８０㎝近い男に清楚な花が似合うと母は本気で思ったのだろうか。受け取った本人すら揶揄われていると感じただろう。だからこそ父はあの後──

　一頻り水仙を眺めた後、蒼瑾はその視線を翠児の方に向ける。無言で手招きをして、椅子を軋ませて立ち上がった翠児の手を掬う。そうして引き寄せて、真横に座らせる。
　翠児の頭に鼻先を寄せる。額を擦り付けると、前髪が翠児の髪に絡んだ。
　すん、と匂いを吸い込む。ああ似た香りだ。淡い虹彩に仄かな熱が孕む。
　吐息が耳朶にかかり、翠児の体が小さく浮いた。
「じっとしろ」
　蒼瑾は翠児の頬をたなうちに収め、上向かせる。でたらめな凹凸おうとつをした鏡面は天晴れなほど双眸を隠し、隙がない。早々と諦めて、邪魔くさい襟巻に食指を引っかける。翠児が反応して身動ぎするのにも構わず、露わになった小さな唇を塞ぐ。
　初めて蒼瑾の方から重ねられた接吻は、翠児の知るそれとは様子が違っていた。やわらかな厚みは雛鳥がするように、何度も唇を啄んでくる。執拗な行為を受け止めきれず、翠児の体は徐々に傾いてゆく。その腰を抱え込み、蒼瑾は少女の体温をも自分のものにせんと貪りつく。

　生きていることを肯定された喜びが蒼瑾の心をほどいてゆく。そうして、あふれ出る感情がもっとも愛おしく想う者に注がれる。
　蒼瑾の体重が加わり、息苦しくなった翠児は唇を僅かに開く。そこをすかさず咥えられた。
「ん──むぅ」
　舌先を捕らえられ、呻きすらも喉奥に封じ込められてしまう。
　舌同士が擦れ合い、蒼瑾の最奥に小さな火花を散らせる。
　ざらつく触感に息が荒くなる。玉液をこぼすのも惜しい。
　蒼瑾は、翠児は、無我夢中で互いの腕、肩にしがみつく。
「あ──」
　息継ぎのために解放した翠児の紅唇から、甘ったるい声が漏れる。口の端に曳く銀糸が己に繋がっていることを認識した瞬間、蒼瑾は体の異変を感じ取る。
明らかな兆しが身の内に起こっている。なんだか、とてつもなく、怖ろしい。
（──だめだ）
　動揺を覚られぬよう、ゆっくりと体を起こす。ふうふうと、肩で息をする少女をそっと褥に横たわらせる。くたくたになって四肢を投げ出す翠児を視界に収めたまま、蒼瑾は床の片隅にじりじりと退き、兆しの鎮まるのをじっと待った。

　やがて翠児の呼吸が浅くなった頃、そろそろ灯が必要な程度に辺りは暗くなっている。
　蒼瑾は膝を抱えて水仙を見ている。昏暗の中で、水仙は青褪めた白さを保つ。それでだいぶ頭が冷えた。
　おもむろに翠児の方へと躙り寄る。ちょっと大人しすぎるだろう。それとも、起き上がって顔を合わせたくないのか。それほど、厭だったか。不安になって翠児の顔を覗き込む。
「すう、すう」
　──健やかな寝息を立てている。
（呑気）
　がっくりと項垂れる。怖がった己が莫迦みたいだ。唇をへの字に曲げながら、意識は翠児の口許に留まる。
　──濡れている。渇くほどの時間は経っていなかったようだ。
　俺が濡らしたんだと改めて意識する、途端に耳まで赤くなる。詫びる思いで拭ってやった。

（俺はただ、）
　再び、視線を水仙へと巡らせる。
（父のように、しただけだ）
　膝を抱え込み、長く息を吐く。
「浮かれすぎた……」
　呟かれた言葉は、膝のあわいに吸い込まれた。

　　　　＊＊＊

「俺に？」
「はい」
　女は満面の笑みである。だが男は戸惑う。胸許に突き出された水仙が、彼女の云うようには己に似ているなどと思えなかったからだ。
「この花、項垂れて、下を向いていますでしょう？　それがね、今のあなたの格好にそっくりでしたの」
　水仙の花冠は下向きに咲く。背を丸め気味にして釣り糸を垂らす姿に重なったのだと云う。
「受け取って下さいますわね」
　瑩潤とした光を湛える墨晶を細め、屈託のない笑みを浮かべる。
　櫻蛤さくらがいの色に頬を染めて、まるで童女のようだ。
　この娘を前にすると、己にも感情があったのかと驚かされる。乾ききった大地の罅ひび割れから透徹な水が滲み、やがて碧水を湛えるほどに満ちてゆく感覚。口端を上げるのも久方ぶりで、強面の己が笑っても不気味なだけだろうが──それでもずいぶんと表情筋がやわらかくなったように自覚する。
　微笑を返して花を受け取る。女の瞳が眇められる。
　女の栗色をした長い睫毛も、桜桃の唇も、白磁の膚も、細い体も──男には、全て触れ得ぬ高嶺のもののはずだった。睫毛と同じ色をした絹の髪を、頬を撫でる。女の期待通りに胸許へ引き寄せてやれば、猫のように額を押しつけ甘えてくる。
「俺を花に重ねるなど」
　結んだ髪に指を差し込み、薄い背に流しながら、変わったひとだと男はこぼす。
　本当に変わっている。こんな俺を伴侶に選ぶなど──正気の沙汰ではない。
　女はぎゅうと男の肩にしがみつく。
「いいえ。高潔なお姿はあなたそのものです。お慕いしています──心から」
　目交ぜの後、女は瞼を閉じる。応じて男がその唇にふれる。接吻を数度重ね、舌を絡める。
　まぐわうことで、蜜に浸るような幸福感に包まれる。そこが開けた岩棚であることも、春の気を孕んだ風が揶揄って纏わりつくのも、居た堪れなくなった鳥や梢がさざめくのも、悋気に荒ぶる山水が意地悪く川魚の遡行を妨げるのも、何も気にならなかった。
　天眼と云う力で覗き見る超越者の視線ですら──
　何ひとつ。
　何ひとつ──

　山を降りる頃合いになって、男は水仙の首を落とした。
「根が生きていれば再び花を咲かせる。お前の花飾りにしなさい」
　驚きに瞠る女の髪に水仙の花冠を挿す。そうして小さく笑んだ。凛とした佇まいも、俯いて憂いのある風情も。すべらかな花弁の白さも、透き徹る花香も──全て妻にこそ相応しい。
　女は含羞に頬を染める。男が女を褒めそやすことなど滅多にない。
「夫君あなたが、それでお喜びになるのでしたら」
　きゅっと唇を噛んではにかむと、男の目尻に皺が増える。

　　　　　＊＊＊

　墨山には、少年しか知らない秘密の場所がある。
　鬱蒼とした山中で僅かに開けた日当たりの良い場所。冬から春にかけて水仙が咲き乱れる。
　群生の中心に、そうと云わなければ気付かぬ塚がある。漬物石ほどの小岩が目印のその塚に足繁く通う少年の姿があった。少年は水仙の球根を殖やして、訪う度に植えていった。
　塚の下に眠る者たちは、待っているだろうか。少年が再びこの地へ戻ってくるのを。
「安心せい……。お前たちの息子は、俺たち義兄弟が引き受けた」
　洪戒はそう云って空を見上げる。星々が凄まじい速さで駆けて行く。瞬く点描は線になり、時の奔流は洪戒を現世に引き戻そうとする。
　花の名を教えた時、蒼瑾は彼岸の花だと思っていた、と云った。
　────墓参りには欠かせぬ花だって認識だった。
　その言葉の意味を、洪戒は此処で知った。
（父母に縁ある花を、お前は毎年供えていたんだな）

　月白の群生は、今見頃を迎えている。

探花抄Ⅲ〈水仙〉