「私が賢いことはおひいさまもご存知でしょうが」
　沈んだ顔の瑩姫に前置きして、明媚は秘策があると小声で明かす。
「後罩房には書庫があります。私たちには教養がないから、だんなさまは安心されていることでしょうが、私は独学で書架のあらかたを制覇しました」
「──書庫？　そんなところに入れるの？」
　後罩房の多くは大抵施錠されていて、たとえ閨を抜け出したとしても他の房には入ることが出来ない筈なのだが。
「錠前破りなんてちょっと知恵を絞れば楽勝ですよ。そこは問題ではありません」
　瑩姫は目を瞠る。長年付き添ってくれた侍女の意外な一面を垣間見せられた気分だ。しかも大胆不敵ときている。
「面白い本を見つけたんです。おそらくは禁書と思われる書物です。だんなさまは大切なものならなんでもこの後罩房に仕舞われるのですね。ここにいるのが女子供ばかりと侮っておいでなのだわ」
「め、滅多なことを云うものではないわ明媚」
　恐る恐る窘めるが、明媚の傲岸不遜に拍車が掛かる。
「あなたがされているのは陵辱と云う名の暴力です。おひいさまは虐げられているのですよ」
　冷静な響きではあったが、それは言葉でありながら質量を伴って瑩姫をぶち殴る。あまりの衝撃に柔な心は眩めくらむが、なんとか落ち着かせようと早鐘を打つ胸を押さえつける。
「暴力って……私は優しくされているわ……」
　祝文台は年こそ親子以上に離れているものの、いつだって優しく接してくれた。体の未熟なうちは痛くてたまらなかった行為も、今の瑩姫には我慢出来る。
　明媚は呆れて溜息を吐く。
「おひいさま……ああ云うことは我慢する時点でおかしいのです。おひいさまはだんなさまと体を重ねていて嬉しいの？」
　明媚の指摘は瑩姫を逆さに吊るし上げる。目の前が暗くなって頭がぐらぐらゆれるようだ。
「好きなら胸のあたりがきゅんきゅんするし、なんだか切なくなって抱きしめたくなったり、相手が殿方であれば、その懐に飛び込んでいきたくなるのが恋とか愛とか云うものです。でもおひいさまはだんなさまが怖いのでしょ？　不興を買って乱暴されるのが嫌なのでしょう？」
　瑩姫の膚が粟立つ。少しでも嫌がる素振りを見せようものなら──両の足首を強く掴まれて押し開かれた、あの時の恐怖と死にたくなるほどの羞恥が生々しく蘇る。
「それ以上云ったら嫌いになるわよ明媚！」
　思わず衾を撥ね除けて身を起こす瑩姫は悲鳴に近い声を上げるが、明媚も負けてはいない。瑩姫の両腕を掴むや、起き上がり様にその双眸を真っ直ぐと捉えた。
「全部おひいさまが打ち明けてくれたんじゃないですか！」

　絶句。
　瑩姫は反論出来ずに項垂れる。声を殺してはいるが、喉のひくつきは止まらない。
　明媚はその悲しい背中を撫でてやる。
「……おひいさまが本当にここから飛び出したくて仕方ないのなら、今がよい頃合なのです」
　どう云うこと？　瑩姫はすっかり赤くなってしまった目で明媚を見上げる。
「この国では、臣下の子女は王の宮殿へ入って宮仕えをする決まりがあります」
「そうなの？」
「行儀見習いと託けて後宮に入れるんです。そして今おひいさまがだんなさまに……しているようなことをさせられるのです。王様に対して────」
　気遣って声を落とすが、瑩姫はぎゅっと眉を寄せて瞼を閉ざす。明媚に背を擦られることで不快感がいくらか取り払われる。
「……大丈夫ですか？　そう、大丈夫ですね。では先を。
　だんなさまがおひいさまの存在を外部に知れぬようひた隠しにして来られたのは何故なのか、おわかりですね？」
「あ……私を後宮に召し上げられないために……？」
　明媚は頷く。
「王命に背いた立派な叛逆行為です」
　言葉の意味は解るが明媚は大げさ過ぎるのではないか。そう思えるくらいには事の重大さに瑩姫の理解が届いていない。瞬きする瑩姫を見て仕方がないと明媚は嘆息する。明媚は色々のものを読んで瑩姫よりは世俗に開いている。文台と明媚と云う蜘蛛糸の如く細い繋がりだけを頼りとしてきた彼女には、王様なんて物語の中の存在でしかない。
　それ以前に、己の置かれた立場を正しく受け止められていないことが問題だ。ここは噛んで含めるようにして説明し、きちんと解らせなくては──先に進められない。
「王様の命令はどのご本でも絶対でしょう？」
「そうね。威張り散らすのはよくないと、私も思うわ」
　明媚が聞かせる様々な御伽噺では、悪い王様は善き心を持つ者によってこらしめられるのがお決まりだ。勧善懲悪は難しく考えることがないので瑩姫も好むが、それに当てはめるならば文台は悪い王様から自分を守ってくれているのではないか。
　しかし明媚は首を左右にふる。
「それはご本の悪徳王の話でしょう。そうじゃないのです。臣下の閨秀が集められて、王様のお世継ぎを生むことは国にとって喜ばしきことであり、お家にとっても誉れです」
　瑩姫は明らかに戸惑っている。
「だって、明媚はさっき、あの方にされていることと同じ事をするって……それを、あなたは喜びだなどと云うの？」
　墨晶は哀れなほどにゆらぎ焦点が定まらない。明媚は落ち着いてと優しく声を掛けてやる。
「好きな相手ではない人に身を委ねる点では、同じです。でもこれは、恋愛とはまた別次元の話です。王とは本来貴い存在。生まれてくる子はやがてその貴い王様になれるんです。優れた王を次代に嗣いでゆくための、臣下の子女に課せられた義務であり、法に定められています。ゆえに従わぬ者は罰せられるのです」
「恋愛とは別……義務……それなら、それなら──私が夜毎されているあれは、何？」
　瑩姫は明媚の目を覗き込む。四方を建物に囲まれた庭から仰ぐ、くり抜かれた青空に似る。彼女の云うことは全き答えだと信じられるような、公正な光が宿っている。
　今ばかりではない。明媚はずっと以前から間違っていると諭してきた。だけど瑩姫は過ちをそうではないと否定してきたのではないか。
「だんなさまはこの邸に君臨する王を気取っているのです。でも、そんなものは内の理です。おひいさまの美しさを王様に取り上げられるのが怖ろしくて、あなたの籍を奪い、この箱庭に閉じ込めている。そうして、あなたを欲しいままに弄んでいるのです」

　ああ──！
　瑩姫は短い悲鳴をあげてくずおれる。その瞬間、瑩姫の心を守っていた殻が亀裂の入る音を立てる間もなく、無残に砕け散った。破片は容赦なく剥き出しの心に突き刺さってゆく。
　わかっていたことだ。
　拙い頭ながらずっと自問を重ねてきた。答はいつでも明媚が導いてきたものと一緒だった。庇護してくれる文台との行為を避けることは難しく、夜毎囁かれる甘い言葉を信頼していた。そんなものは全部、若くて瑞々しい体を自由に貪るための方便だったのに。
「明媚、私、あの方を受け容れられない。好きじゃないの、好きになってはいけない人なの。なのに……いけないとわかっていてこんなこと繰り返すのはもう厭……！
　どうしたらいいの？　どうしたら」
　救われる道などないと思っていた。だから明媚の突き付ける真実に自ら蓋をしてきた。
　文台に従い、夜だけ我慢すれば、生きてはゆける。だが心は冬の井戸水よりも冷え切って、凍り付く寸前だ。このままでは父母に培われたあたたかな感情すら手放してしまいそうだ。
　それだけは嫌だ。
　どうすればこの苦しみから逃れられる？
　逃げたところでどこまでも追ってきて、罰を与えられるのではないか。文台は厳しい人だ。瑩姫を救ってくれた勇士である守人を処刑してしまった。彼は懸命に戦ってくれたのに──
「無理よ……逃げるなんて無理だわ……」
　頭を振り乱して泣きじゃくる瑩姫を、今度は両腕でぎゅっと抱きしめる。しーっと、何度も耳許に繰り返し、明媚は嗚咽が止むのを辛抱強く待つ。
「落ち着いておひいさま。それから話をしましょう。明媚がするのはそう──希望の話です」

「聞いて──」
　明媚の静かな切り出しに、泣き腫らした瑩姫が面を上げたのは四半時三十分経ってからのことだ。
「今こそだんなさまの束縛から解かれる時なのです」
　瑩姫は戸惑う。彼女はとっくに諦めてしまっている。だが明媚は、たとえ瑩姫の心を慰めるために実現不可能な妄想を語る娘でないことも知っている。彼女がこれから話すことは本当に秘策なのかも知れない。ここに来て瑩姫はようやく話を聞く姿勢になった。
「……どうやって？」
　明媚は瑩姫を励ますよう不敵に笑う。瑩姫が耳を傾けてくれて自身も励まされる。
「だんなさまが王命に背いている事実、これを利用しない手はありません。知ってます？　ここに勤める女傭たちは皆故郷がバラバラな上、藪入り時期も別々です。務めを果たし上げた後で、おひいさまの存在を吹聴されても困らないようにしてるんです。碧潭より遠くの土地の噂話なんて結局は余所事、面白可笑しく語られても真実味に欠けますもの。それに、口止めもいくらかもらうでしょう。けれど、女ほどの下世話好きはいません。そこで──ひとつご覧にいれたいものがございます」
　ちょっと失礼と云って明媚はいそいそと床から這い出す。架子床四柱寝台には抽斗が備わっており、彼女はそこの二段目をそっと引き出して一冊の本を取り出した。
「初めて見るご本だわ」
　瑩姫がその装幀に見覚えがなくて当然だ。見せるのはこれが初めてなのだから。
「私が書いた小説です」
　少しだけ読んで聞かせる。瑩姫ははじめこそ興味深げに聞いていたが、次第に顔を歪ませ、終には耳を塞ぐ。
　紡がれているのは瑩姫の半生だ。名こそ変えているものの、父母との死別、守人に守られて死地を脱したこと、文台に拾われてからのこと──そして彼との関係についてまでが赤裸々に描かれているだろうことは、みなまで聞かずとも予想が付く。籠鳥姫と云う題名は、そのまま瑩姫を指す名ではないか。
「そう。これはあなたの物語です、おひいさま」
「まさか明媚、あなたこれを去って行った女傭たちに持たせたの？」
　彼女は失望の内に焔を燻らせた眼差しで明媚を見ている。明媚にとって悲しいことだけど、明媚もまた哀れな主を救いたいと云う一心で事を起こした。詰られるくらいの覚悟などとうに出来ている。
「これがおひいさまを救うのです！　彼女たちに託し拡散され始めたこの本は、わかる者には真実だとわかる。籠鳥姫の噂はやがて王城に届くでしょう。高官であらせられただんなさまが王命に背き、おひいさまを後宮に差し出すことを拒んでいる。それも、その存在を亡きものと偽って。王は軽んじられたとお怒りになるはず。噂が真か否か、きっと調査の手が入ります」
　瑩姫は羞辱に耐えている。私の苦しみが物語となって世に出回り、好奇の目に晒される──
　人々はどう思うのだろう。色狂いだと嘲るか。さほど本気に思ってもいない同情を寄せられ娯楽の少ない者たちの無聊を慰める話の出しにされるか。そうして皆、面白可笑しくあることないことを付け加えて、色んな人に触れ回るのか。握った拳が小刻みにふるえる。
　だが明媚は間違ったことを云いはしない。これは計画の一端だ……そう己に云い聞かせる。
「……調査が入れば、私の存在は明るみになる。そうすれば、自由になれる……？」
　明媚の目許にも雫がふくれあがる。明媚の立てた計画に瑩姫が乗る気になっている。今までたった一人で組み上げてきたものが報われるような気がした。
「はい……はい、おひいさま。黙っていましたけれども、私一人ですでに──
　お辛そうなおひいさまを見ているのが痛ましくて」
　声がふるえてしまう。ずっと一人で気を張り詰めてきた。

　明媚は計画を思いつくとすぐに物語を綴った。推敲を重ね満足の出来に至ったところで次は嗜好品を売りに来る商人に作品を売り込んだ。商人には察するところがあっただろうが、深い追究を避けた。読み物としてこれは売れるだろうと見込み、その利益を丸々懐に納めてよいと約束されれば、多少の危険は厭わぬのが商人だ。彼は喜んで印刷の伝手を繋いでくれた。本は書き手知れずのまま世に広まり、そこへ、年季を終えて故郷に戻った女傭たちが主の口止めも忘れて吹聴することだろう。今流行の物語は私がご奉公していたお屋敷で実際にあったのよ、と。祝文台ほどの立場にある人物が題材とあらば、即座にその正体が割れるだろう。その後、商人はめっきり邸に来なくなった。本が売れたことによって祝文台からの疑惑の目を回避するために近寄ることを避けた──と云ったところか。そして、そのことで明媚に噂の一人歩きを確信たらしめる。ここに至るまで、半年もの月日を費やしている。その間当の本人には報せることなく、主人を、父をも欺き通したのだ。
　加えて、父の様子にも緊迫の色が見え始めていた──
　明媚の父は事情を唯一知る文台の側近だ。籍を失った瑩姫を哀れに思い、己の娘を侍女にと差し出した。その父が今朝こんなことを呟いた。
　──近く、お嬢様をお隠しせねばならぬやもしれぬ。
　明媚はわざと、どうしたのですか、何かあったのですかと不安がって見せた。父はそれ以上何も云わなかったが籠鳥姫の噂は文台の耳にも届いたか。彼らは王城から調査の手が入る前に策を講じねばと話合ったのかも知れない。
「おそらく、おひいさまは調査の間だけどこかに移されることになると思います。しかし事は重大です。差し出すべき子女の籍を偽ってまで王命に背いているのですから邸を捜させるだけでは済みますまい。それ以前にだんなさまがおかしな動きを見せぬようすでに監視されているかもしれません。動けばかえって怪しまれると云うもの」
「私はどうなるの？　王様に保護されるの？」
「保護なんて期待してはだめです。王様に侍ることは名誉と云いましたけれど、だんなさまにされていることが嫌だと感じるのなら、多分おひいさまは王様だって嫌いになりますよ。結局あなたはその美しさのために男どもに弄ばれるのです」
「そんな……酷いわ……」
　童女の如く目許を擦る瑩姫の二の腕を、明媚はしっかりと掴む。
「だからね、だんなさまからも、王様からも逃げるんです！」
　彼女の云う通りだ。皚国臣下の娘の務めでも王の後宮に入ることは結局現状と変わらない。
　──それなら、それならば。
「私、逃げられる……？」
　すん、と鼻を鳴らす瑩姫の涙を拭う明媚もまた、目許を赤く腫らしている。
「ここまで膳立てしたのです。何としてもやり遂げましょう」
「でも……王様の手からどうやったら逃れられるの？」
　どの物語でも王は巨大な権力で英雄たちを窮地に立たせる。だがそれを乗り越えてゆくのもまた英雄だと明媚は云った。
「おひいさまを秘密裏に脱出させるためには、王すらをも出し抜く力を持つ者の手を借りねばなりません。だんなさまはいずれこの禁書の存在を思い出すでしょう」
　明媚が懐からそっと取り出したもの──黒い革を用いた表紙で小口も黒に染められている。それはとても深い黒をして、瑩姫は思わず息を呑む。何が書かれているのか恐る恐る問うと、明媚は厳かな口調でこう云った。

「これは、闇の者を召喚するための秘書にございます」

探花抄Ⅲ〈序〉籠鳥姫