　闇の一党初代首領は皚がい王家に仕える臣であった。その姓を玄と云う。
　玄氏は五国戦争末期、芒浪原の戦いで灎えん兵千の数を単騎で凍り付かせ、名を轟かす。戦後は五王監視の天府御史てんぷぎょしに指名された。御史とは官吏を監察するための官職だが、天府御史は戦後始末を買って出た神仙たちによって指名された者を指す。神仙の隠棲する神山から名を取って天府御史と呼ばれる。天府御史は王政の内側からではなく外側から監視をし、悪政が見られた場合には相手がたとえ王であっても──是正の生殺与奪権を与えられた。表舞台に立つことは許されず、天府御史となった玄氏は皚王より賜った富や築いた名声の一切を捨てて遁世した。
　今でこそ均衡を保つ五国だが、そもそも思想が同じなら国が分かれる必要などない。五国の原型は蜃島の外海より流れてきた人々が築いた共同体の幾つかである。そこには外つ国同様、言葉と文化の隔たりが存在した。五国は互いの文化を尊重したが、深くに踏み込もうとせず、表面的な調和の裏には不和も確かに存在した。ひとつの島に五国が独立することは、人同士が思想もしがらみも捨てて解り合うことの難しさをあらわすようにも見える。そう──そうして見せかけの友好は崩壊し戦争と云う大事に至ったのだ。終戦後は天府御史が組織され、厳しい王政監視のおかげで武力行使の大戦はなくなったが、人心は簡単に変われないもの。横たわる隔壁は人々の心の最も深いところに根を張っている。国と国との冷戦は今尚続いているのだ。それが今日まで衝突もなく平穏な国交が保たれている裏には闇の者の暗躍がある。
　御史と呼べば聞こえは良いが、蓋を開ければ異能力を持つ刺客集団と云うのが実体だ。武力でしか解決出来ない案件を請け負ってきた闇の組織は、実質王と同様の権力を得つつあった。神仙たちは五国のそれぞれより御史に相応しい者を選りすぐったわけだが、集った精鋭らにもそれぞれの生国に基づく思想があった。なまじ、王より強い権限を神仙から与えられたために長い歳月を経て彼らは増長し、生国への愛着を捨てて公平な裁定を下す心眼を失っていった。　　
　御史内の派閥もまたそれぞれの生国ごとに分かたれ、代表者は影の五王と呼ばれた。冷戦は影の五王と、彼ら率いる天府御史同士の対立へと構図が変わる。人々が健やかに暮らすため、五王が侵した過ちを繰り返させぬために存在する天府御史が、今やその五王や民たちを掌中に転がしている現状だ。結局のところ、支配者が五王から天府御史に挿げ替えられただけのこと──
　木菟の仕えた首領・玄鴞げんきょうはそうした世の仕組みに思うところがあったようだ。玄鴞のことは生まれたときから見てきた。刺客のくせにいささか甘い面があるのを、木菟は見抜いていた。人同士が解り合えないと云う諦観を前提とした国と天府御史の在り方に悩みを抱えていたのか──玄鴞は逐電した。初代首領の再臨と呼ばれるほどの才能を持った玄鴞の出奔は一門の存続危機を招いた。その後崩壊を防ぐほどの代わりが立つことはなく、闇の一党の名は天府御史の名簿から削除されてしまった。

　十年が経った頃。居所の全く掴めなかった玄鴞が木菟を尋ねてきた。彼の父と木菟は同年であり互いに技を競い合った仲であった。玄鴞のことは我が子同様に見てきた。一族を裏切った元首領の突然の訪問に木菟は驚いたものの、再会の喜びが勝った。
「そなたが一族を捨てたことにわだかまりはあるが、もう一度会えて嬉しく思うぞ」
　そう云って家の中に招こうとした木菟を玄鴞は手で制した。
「俺が会いに来た理由は再会を喜び合うためではない」
　それで木菟は一気に目が覚めた。
「──では、殺されに来たのか。今更舞い戻ったところで許されるとでも？」
「……ここにいる意味をわからぬ翁ではあるまい」
　木菟は何も云い返せなかった。玄鴞のために放った同門の刺客は皆消息不明となっている。十年もの間追っ手から逃れて来た男だ。刺客の生死については考えるまでもなかった。
「目的は何じゃ」
　木菟が苦々しい思いで問えば、玄鴞も不本意そうな顔をして答える。
「くらやみを封印するために、知恵を貸せ」
「何じゃと？　誰の──」
「息子だ」
　木菟は驚く。四年前に玄鴞は妻帯し子供を持っていた。次いで玄鴞の求めに眉を顰めた。
　くらやみの封印。一族の未熟な幼子に稀に起こる異能への拒否反応。そのための措置。
　本来闇の一党にとってくらやみを御する能力は呼吸同様生得的に備わっているものであり、何故出来るのかと疑問に感じて思い悩むようなものではないのだが、幼児期においてふとしたはずみで、それまで抱くことのなかった異能への恐怖が発生し、最悪力に呑み込まれることがある。
　玄鴞の息子の場合、些細な出来事がきっかけとなった。
　五歳になる玄鴞の子・宵しょうは、無意識のうちに己が発現させたくらやみを深夜の肝試しと云う緊張下にあって初めて直視する。木々の騒めく真っ暗な山中、ひとり取り残され恐怖の極致にあった宵は己に付き纏うくらやみに気付くや、これこそ山中を彷徨う幽鬼であると思い込んでしまう。くらやみを怖れた宵は陰気の制御が一切出来なくなってしまった。一度根を下ろした恐怖のために、これまで自然と出来ていた制御の術を忘却してしまったのだ。
　闇の一党は自然界の陰気を体内に集め、凝縮させたより濃い陰気を放ち、或いは物質化して武器とする。体に溜め込んだ陰気の量が多いほどくらやみは強力になる。だが陰気を常に体に溜めておくことは出来ない。異能力者といえども陰気を受ける器は人の肉体だ。人体は陰陽の調和によって正しく保たれる。いかに耐性がある闇の一党でも過分な陰気は心身に障るのだ。くらやみの制御を失った宵は日に日に衰弱していった。陰気は際限なく取り込まれるのに吐き出すことが出来ない。くらやみは宵の健やかな体を蝕む毒となってしまった。
　くらやみは体の一部。それを恐怖し否定することは己を拒むことと同じだ。だが幼い子供に理屈を説いたところで、得体の知れ無さでは幽鬼と大差ない。心のやわらかな部分に根差した恐怖は宵から理解力を奪った。父が怖がるなと言葉で説いても宵の拒絶は解けなかったのだ。
　木菟は気が進まなかったが、結局玄鴞の求めに応じ、くらやみの封印方法を伝授した。
「この術は高い代償が付くぞ」
「知っている。故に父は俺に直接伝授出来なかった。この術だけは、見届け人の口伝によって伝えられる」
　伝授が済むと玄鴞はすぐに発った。木菟は彼に気付かれないように尾行した。よほど子供が心配なのだろう。木菟も重々注意を払ってはいたが、玄鴞は追跡に気が付かなかった。
　玄鴞とその家族が皚国の外縁の地である白沙村で暮らしていることを木菟は知った。玄鴞の帰還を迎えた夫人は美しい女だったが、泣き腫らした目をしていた。夫人の媵そいよめか、もう一人の娘もまた不安げな顔だ。くらやみに冒された彼らの息子は夫人によく似た面差しで、雪よりも白い顔には死相が現れていた。玄鴞は二人に一切の説明を行わず儀式を急いだ。玄鴞が幼子を抱えてゆくと、二人の女は身を寄せ合って男の背中を見守った。
　封印には白沙村の僧侶であり、玄鴞の友人と云う月心げっしん和尚が立ち会った。儀式はつつがなく執り行われ、術は成功した。夫人と娘は破顔して喜び合い、滅多に表情の動かぬ玄鴞の面にもさすがに安堵の色が滲んでいた。
　だが──不安が取り除かれて冷静になった玄鴞は、木菟の気配に気付いたようだ。
　深夜、木菟は闇の中で玄鴞と対峙する。
「去れ。我らに関わるな」
「儂は一族の若子を見守りたいだけじゃ」
　木菟は一族の現状と後継者の重要性を説いた。
「後継者は玄氏の血を引く者でなければならない。闇の一党──父君の系譜を絶やす気か、鴞」
「あの子を後継者にするつもりはない」
　木菟は情に訴えたが、ぴしゃりと拒んだ玄鴞の双眸に銅色の星屑がちらつく。
「二度と姿を見せるな、木菟。さもなくば、そなたを殺さなければならぬ」
　それでも玄鴞の警告は彼なりの温情であった。木菟は退くしかなかった。
　諦めきれない木菟は、白沙に近い虧月の地に留まり商人を装った。人を雇い、商売に託けて村に送り込ませたが玄鴞の目が光る以上様子を窺うにも限界があった。使いに出した手の者が袋詰めで送り返されてくることもあったが木菟はめげなかった。あくまで自身は乗り込まず、素人を遣わせて様子を見る。玄鴞もそのうち放っておくようになった。木菟に入る情報は素人目線で切り取られた平凡な日常の断片。知られたところで木菟に得られるものはないと考えたのだろう。
　確かに、もたらされた情報は木菟にとって無益だった。玄鴞は表の世界で人並みの暮らしを手に入れ、静かな幸福を噛みしめていた。闇の一党の首領がそんな生ぬるいことでどうする。一門の凋落を憂える木菟には玄鴞の今が歯痒くて仕方がなかった。しかし良き夫良き父である様子を聞かされては、玄鴞が闇に戻る気など微塵もないことを知らしめられるようで、木菟の中にもいよいよ諦めが生まれた。
　郷里に帰ろうかと考え始めていた頃、木菟は玄鴞を恨む女の存在を知った。木菟を拒絶した玄鴞に世話を焼く必要などないとも思ったが、亡友の息子を脅かす存在を知りながら黙ってもいられなかった。木菟もつくづく甘い。女の暮らす龍嚨りゅうろう関と商売の拠点である虧月城の往復を繰り返し、監視は五年にも及んだ。
　その間、宵の義姉、玄夫人、玄鴞が相次いでこの世を去った。木菟は天涯孤独となった宵を引き取ろうと白沙へ赴く。だが時既に遅く、宵はくらやみで作った殻に閉じ籠もってしまった後だった。くらやみの揺籃は強固で、玄氏直系の術を傍系である木菟の力ごときで破ることはかなわなかった。深い嘆きの末の籠居だ。心の傷が癒えるまで一体どのくらいかかるのか──
或いは癒えずに閉拒したままなのか──自ら外界との繋がりを絶った以上自ずと出てくる時を待つしかない。木菟は諦めて虧月城に戻った。
　──数ヶ月が過ぎた。宵はくらやみの殻から出ていた。彼は玄鴞の仕事を引き継ぎ水売りで生計を立てていた。
　今度こそは。闇の一党の存在を話し、そこが居場所だと説けば共に来てくれるに違いない。木菟は意気込んで白沙へと赴くが、宵は他人をひどく警戒しており、くらやみを張り巡らせて付け入る隙を見せなかった。また後事を頼まれたらしい呂和尚の存在も接触の妨げとなった。彼は坊主にしてひとかどの武芸者でもあった。闇の一党は闇討ちを得意とする。陰気をあてて人を凍りつかせたり、陰気を凝縮した刃で人を貫くといった戦闘に特化した能力は首領唯一のもので、本来闇の一党の能力は正面きっての戦闘に向いていない。呂月心と真っ向から挑んで無傷では済まされまい。
　木菟は接触の機会を窺うばかりで、宵のために何もすることが出来ずにいた。
　玄一家の相次ぐ死から五年──
　そして此度の灎国への出奔──

　洪戒の云う通りだ。木菟は何も知らない。

　封印から解かれた宵がくらやみに籠もった経緯には、察するに余りあるものがある。しかし孤独の殻を自ら破り、陽の下に這い出た彼が、何故また人目を忍んでくらやみを纏うのか──
木菟は傍に居なかったからわからない。何も知らない。
　玄鴞が闇の一党を捨てて、死を得て。遺された若子を影ながら見守って──
　二十年が経った。バラバラになってしまった一門復興のために今更若君を祭り上げるなど、ちゃんちゃらおかしいのかも知れない。だが木菟はその理想に縋るしかなかった。各地に散る仲間たちが再び玄氏の許に集う日を待ち望みながら今なお蟄伏しているだろう。そう考えでもしなければこの二十年何をしてきたのか──
　ぬかるみにとらわれた思考が己を責め、虚しさばかりが募ってくる。

「重要なことは若君が闇の一党の正統な後継者である、この一点につきる」
　木菟は洪戒を正眼に見据える。
「所詮そなたは血の繋がらぬ赤の他人ではないか。ささやかな同情や行きがかり上の義務感に駆られて一族の問題に首を突っ込むものではない」
　それを聞いた洪戒のこめかみがぴくりと引き攣る。
「同情せざるを得なかったしあの子には大人の手が必要だった。早急にな。女の尻を追うのに忙殺されてたあんたにはわかるまい。あの子は俺たちが拾ってなきゃ命を落としてたんだぜ」
　蒼瑾に魅入った沈紅──百花仙子が仙界へ連れて行く可能性も多分にあったのだが、それを云うとややこしいので噤んでおく。
　木菟にとっては今の言葉は寝耳に水であったか、やや驚いた表情である。
　若君が何故白沙を出て芒浪原にいたのか、疑問に思わなかったわけではない。だが、蒼瑾を見守っていたようで何一つ彼の思考を読めない木菟には、理由など考えつくはずもなかった。
「解せぬな……儂は芒浪原でくらやみの顕現を見たぞ。あれほど陰気を制御出来ていたなら、これまでにどんな危険が降りかかろうと易く払ってきたはず」
　木菟の懐疑は思わず口から滑り出ている。
「力が覚醒したのはまさに命を落とされるかって瀬戸際だったのだ。つい二週間前、あの子は村人に襲われた。応戦はしたが瀕死の重傷を負い、そのせいですべての記憶が欠落したのだ」
「何じゃと⁉」
　今度は素で驚いている。洪戒はここぞとばかりに畳みかける。
「そう、全てだ！　あの子は家族のことも自身のことすらも、すっかり失ってしまったのだ。ささやかな同情？　行きがかりの義務だ？　かけるだろう！　あの子の過去は真っ白だ。己が何者か見失った子供を放っておけるものか」
　洪戒は悔しげに唇を噛んでいる木菟を食指で指す。
「あの子がどれほど寄る辺ない思いをしているかわかるのかね。霧杳の只中にあって浮漂するあの子に居場所と名を与えたのは俺の義弟だ。駆け付けられなかったあんたではない。それを今更保護者面されて受け入れられるわけがないだろう。虫が良すぎるってもんだ」
　木菟の目は困惑にゆれる。今になって悠長に接触を先延ばしにしていた己を恨めしく思う。もっと早くに彼に会っていれば。亡父をよく知る者だと明かし、喪失の悲しみを分かち合っていれば、若君も斯様な目に遭わずに済んだろうに。
　記憶喪失だと──
　では尚のこと、きちんと話さねばならぬ。誇り高き血統を持つ若君が、通りすがりの凡夫を義父に仰ぐのを黙って見ていられようか。
「そなたの意見は感情論じゃ」
「……否定はせんがね」
「若君が己の意思で身の振り方を決められない状況にあることは理解した。だが選択肢を潰すのはいかんのう。若君には事実を話し、その上でどちらを選ぶか決めて頂くのはどうじゃ？」
　洪戒は大きく舌打ちする。苦虫を噛み潰したが如き不快が面に露わとなる。
「無神経な……あの子は今話を聞いて受け入れられる精神状態じゃないんだぜ」
　苛立ちを抑えきれず、殺気立つ。木菟は平静を装うが、殺意をまともに受けて膚が粟立つ。
「しかしあんたの云い分にも一理ある。選択肢は無闇に潰すものではない、かもな。くらやみの力が何たるかを知らぬうちは。たとえば、その暴走したくらやみを封じた手段とか。口伝と云ったな？　そう云うものがまだあるのだとすれば、生かしておく必要は──あるだろう」
　木菟は内心冷や汗をかいている。木菟はどうやら洪戒と云う男を見誤っていたようだ。
　若君が木菟の庭とも云える龍嚨関に入った際、連れの一人が洪戒であることを知った。彼の名は裏表の世界にかかわらず知れ渡っている。義侠心の塊のような男だと聞いていた木菟は、宵との接触をもし洪戒に干渉されたとして、裏世界における闇の一党の地位とそれを保持する重要性を説けば話の通じる相手だと考えていた。
　しかし実際に言葉を交わした今、思いの外物事の筋よりも個人の感情を優先するらしい男と気付かされた。彼はその上で木菟の価値を値踏みしている様子。となると木菟に望みはない。闇の一党が天府御史だったのは過去の威光。そもそもこの男には天府御史に属した丹たんの一族を鏖殺おうさつした過去がある。単独で一集団を壊滅させたとあって当時界隈ではかなり騒がれた。丹の一族が洪戒の恨みを買った理由がまるでわからなかったためだ。洪戒はその異能力ゆえに御史に属していると目する者が多いが、実際は独自の信条に基づく行動をしている。つまり御史の威光や御史設置の際に神仙たちが定めた法も、武術者の世界にある暗黙の掟ですらも、洪戒を拘束する縛りにはならないのだ。己が気に入らないものは殺すし、気に入れば救う。そう云う男なのだ──
　毛衣外套の竪襟の下、厭な汗が流れ落ちる。木菟の命が見逃される可能性があるとすれば、ふたたび宵がくらやみの力に呑み込まれたとき解決の術を知っていると云うただ一点が救いの鍵となる。しかし封印の際に立ち会った呂月心もまたその方法を知っている。白沙村において宵の保護者だった呂月心が若君を護らない謎がここにきて生じるが──その呂月心が洪戒らに宵を託したのだと考えると、いよいよ木菟の必要性はなくなる。
「儂を殺せば……若君が実の両親を求めたとき、語る者が居なくなるぞ……」
　命乞いの呟きを、しかし自らの耳に聞いて無意味であることを覚る。呂月心の方が己よりもよっぽど詳しいことに気付いてしまった。
「他に詳しい奴にでも聞くさ。まあ、彼はあの子が新たな人生を歩むことを望んでいたがね」
　この口ぶり。やはり洪戒は呂月心と接触している。
「──そうか、そうだな。別にあんたに訊く必要はないのか」
　洪戒も気付いたようで、木菟は大いに慌てる。まずい。このままでは殺される。
「ま、待てッ！　儂はある女を監視しておったのじゃ。それは先代首領の過去の不始末じゃ。後顧の憂いは今尚続いていると云ったら？」
　天眼を開いた目が鈍く輝いている。この男、すでに過去を視ている──
　となれば女の存在を木菟の口から聞くまでもないだろう。命乞いにしてもあまりにお粗末。
　木菟は腹を括った。もはや一戦交えるより助かる手立てがない。
「……なるほどなァ」
　洪戒の目が眇められるのと同時に周囲にかけられていたまやかしが解除される。民家の門も突き当たりの照壁も水盆も消え失せる。影を集めるそこは洪戒が先に云った通り径の袋小路であった。
「……」
　木菟は目を瞠らせている。何故だ？　何故天眼児は術を解いたのだ？
「儂を殺す気だったのではないのか」
「義弟が導く未来は闇の世界とは無縁の生活だ。保護したのが俺って時点であんたにはツキがなかったのさ。諦めてくれれば命は奪わん」
　見逃すと云うのか──萎みきって止まるのではないかと思われた心臓に、今またどくどくと血潮が戻り鼓を打ち鳴らす。
「何でだって顔をしているな。まあ、あんたの二十年を思えば無下にも出来なくてね。それにこの先記憶を取り戻すことだってあるだろう。選択肢は摘むべきじゃあない。何を選ぶのかはあの子の自由なのだから」
　云った上で洪戒は木菟を睨む。
「だから強制的に連れ去ろうとか、してみろ。この俺が許さん。──俺の噂はあんたも知っているんじゃないかね」
　木菟は竪襟を引き寄せる。二人の間にある程度の距離が置かれていなければ、木菟の喉から生唾を嚥下する音が聞こえていただろう。
　老人が大人しくなったので洪戒はゆっくりと過去を遡る。木菟の話した後顧の憂いとやらを視ると、運命が歯車の如く噛み合う神秘さを感じずにはいられない。
「で。その女をあんたはどう始末する気だったんだ？」
「復讐を遂げるにもあれの仇はこの世に存在しない。だから二人が接触するようなことがない限り静観するつもりじゃった」
「しかし巡り逢ってしまったわけだな」
　さて、どうしたものか。洪戒はだらしなくのびてしまった顎髭を弄る。

探花抄Ⅱ〈三〉闇の一党