　四半刻三十分ほど待っただろうか。詰所で茶を啜っていた茜は、蒼瑾のようやくのお出ましを受け椅子にどっしりと構えていた腰を上げる。
「かかったな」
「……悪い」
　蒼瑾はずいぶん疲れた顔をしている。実はあの後翠児までのぼせてしまい大変だったのだ。ゆぶねの縁でぐったりしていた翠児を大慌てで運び出して榻に休ませ風を送り、水を飲ませ、着替えを手伝い──ゆでだこの翠児を連れ回すのは不憫で、洪戒のところに置いていくことも考えたが、本人が嫌がった。仕方なく翠児の体調が良くなるのを待っていたのだった。
　茜は手を繋ぐ二人を交互に見る。貸してやった袍は、もともとが体に対してゆとりが出来るように作られている。茜と背丈のそう変わらぬ蒼瑾にはちょうどいい大きさであったようだ。自分の袍は翠児には大き過ぎるだろうと感じたので、厨女くりやめの少女から拝借した。煙花妓女の中にも売られてきたばかりの少女はいるが、彼女たちが身に着ける服は一目で煙花とわかる派手さがある。煙花は煙花巷はなまちの外に出られないしきたりがあるため、煙花の袍を貸すことは出来ない。それ故厨女から借りたのだった。翠児にはそれでも少しだぶついて見えるが、動く分には問題無い程度だ。茜と厨女の少女が持つ服の数少ない一着を貸している。さっさと裁縫店に二人を連れて行き新しい服を買って貰わなければ。厨女の少女にも替えがないのに、と渋られたのを今日中に返すからと無理を通した。
「じゃあ、行こうか」
　茜は二人を先導し、詰所のすぐ傍らにある勝手口から妓院の敷地外へと出る。

　同じ頃、洪戒は欄干に凭れて窓の外を眺めていた。子供の影が三つ、石畳の敷かれた細い路に現れる。
　随分かかったものだ──洪戒はくつくつと笑う。澡堂での様子を天眼で視ている。ほのかに煌めく瞳には人形ひとがたの影画と翠児、二人のやりとりが映し出されている。
「初いよなぁ」
　洪戒の呟きを耳に拾い、蒼玦はのっそりと起き上がる。
「何がです？」
「匿瑕だ。あれは記憶を失ったせいで無垢なのかと思っていたが──」
「失ったと云っても一部分にすぎません。生活する上で必要な知識と経験は残っているのですから、人格だってそうころっと変わるものでもないのでしょう」
　蒼玦は宿酔の頭を押さえながら立ち上がると、眼前の円卓にふらふらと歩み寄った。欄干に頬杖をつく洪戒は、卓上の水差しに手を伸ばす蒼玦の動きを視線で追っている。水差しの細い口を傾ける。清冽な一筋はなみなみと杯を満たす。勢いよく呷って溢れた水は顎を伝い、白い首筋を撫でる。
　色香の芳しい男だ。何気ない所作にいちいち官能をくすぐられる。洪戒は艶めく義弟の姿をこっそりと目の保養にしている。少年時代に初恋を拗らせて以来、蒼玦に対する青臭い未練を未だ持て扱いながら、それはそれとして愉しんでいる。狎れて無防備な姿を晒す蒼玦を舐めるように観賞し、密やかな愉悦に浸かることで、癒しの叶わぬ感情をひととき慰めるのだ。
「あなたの云うように──」
　洪戒の視線に含まれる邪心に気付かずにいる蒼玦は、血管の浮き出る薄い手の甲で顎と首、鎖骨に留まった水を拭いながら、
「育ちは良さそうだ。相応の教育を出来る環境、或いは人間に育てられたのでしょう。戸籍を調べれば案外簡単に判るのかも知れません。父親の方は難しくとも、母親の方は」
　すっきりした顔を窓際の洪戒に向ける。洪戒は邪な夢想に耽っていたことを噯おくびにも出さず、蒼玦の視線を窓向こうに受け流す。
「あまり期待はしてないがね」
　現実に引き戻された洪戒の、覇気のない応えを怪訝に感じた蒼玦は眉を顰める。
「云い出しっぺのくせに消極的だな。母親の方は天眼でも視えたのでしょう？　だったら」
「あれは駆け落ちしたんだぜ、多分」
「何故そう思うのです」
「憶測だが、父親は闇稼業の出自だ。対する女はいかにも良家のお嬢様って見目だ。女の家が結婚を祝福したとは思えんな。父親の方もだ。異能力者の集団ってのは能力の流出を防ぐため群れを離れないものだ。一門を抜けた人間は最悪の場合殺されるんだよ。匿瑕の一家は白沙でしばらく平安に暮らしていたと呂和尚は云った。そのことから父親の実力がおおよそ知れる。同族──つまり同じ能力を持つ追っ手を撒けるほどの人間ってことだ。そんな男が女の係累、己に通じる手がかりを残したままにしておくと思うか？」
「……異能力を持つ人間が部外者と婚姻を結ぶことは、そんなにも厳しい話なのですか──」
　蒼玦は云ってから後悔したらしい顔付きで口を噤む。身近にいる異能力者たちの姿を浮かべ決して平凡な生活を送っているとは云いきれないことを覚っている。
「己の幸福を守るために障害は排除する。徹底的にな。異能力者ってのはそう云う考えの連中ばかりだぜ。わかるだろう？」
　洪戒は自嘲気味に嗤う。
「両親は故人、繋がりある一族郎党も存在しない。それでは過去を知ったところで何の希望も持てないではありませんか。なんなのです、あなたは。希望を持たせたりして」
「そうじゃないんだよ子環しかん。その辺はとうに通過しているのさ、匿瑕は。俺が問題視するのは孤独の辛さを何で埋めたかと云うことだ。お前ならばすぐに気が付いたんじゃあないのか？
　そもそも匿瑕はどのようにして花魄を手に入れたのか」
　蒼玦は洪戒の言葉の意味を咀嚼するうちに立ち眩みを覚え、背にした円卓に体重を預ける。怖ろしい考えに目の前が暗くなる。
「視たのですか」
「試みているが、まだ視えん」
「あて推量ではありませんか」
「フン。だがもし想像通りならばな、俺が危惧する理由もわかるだろう。本来花魄とは異形の存在だ。そんなものを心の拠り所にするのはな、異常だよ」
　蒼玦には、云い返す言葉がすぐに見当たらない。
　異常。洪戒に幾度となく厳しく諭され──或いは噛んで含めるように、繰り返し聞かされた言葉だ。
　洪戒は人と人外が結ばれることを快く思っていない。彼自身、天眼などと云うものを持って生まれたせいもあり、親しみやすい人柄ではあるが力を持たない者への線引きははっきりしている。花魄に向ける厭悪については特に、蒼玦との因果関係もあって多分に持て余している。頭ごなしに黄玉おうぎょくと添ったせいで義弟が不幸を抱えたと思い込んでいるから、当の蒼玦がいくら否定しても聞いてくれやしない。
「花魄自体は悪さをするものではありません。翠緑玉だって人の子供と変わりありませんよ」
　どうせわかってくれないだろうと諦めつつ、蒼玦は翠緑玉の肩を持つ。成立ちがどうであれ花魄に罪は無い。そも花魄とは、死者の生前の罪も懊悩も清らかに濯がれて昇華した結晶だ。花魄によって破滅するのは人間側の問題と云える。
　だが、こちらに向き直った洪戒は不機嫌を露わにした。
「人間と変わらないだと？　匿瑕は成長するんだぞ。翠児を女として意識し始めている匿瑕がこのままずるずる想いを膨らませてみろ、男として苦しむことになる。かつてのお前みたいに──いや、純粋な分もっとずっと苦しむだろう」
　自分を引き合いに出されると蒼玦は黙っていられない。黄玉を愛したことは今にしてみれば過ちだったとしても、彼にとっては覆し難い真実なのだ。

　黄玉。花匠・蒼玦が初めて繭より孵し、育てた花魄。
　蒼玦にとっては娘のようなものだった。魂を与えられた彼女は屈託のない真心で蒼玦を愛しやがて熟すると彼からの愛をねだるようになった。女ヒトのように──
　若い蒼玦は父として、男としての狭間で揺れた。その頃には黄玉を人間同様に尊重しており彼女の願いに背くことが出来なかった。
　蒼玦は少女の願いに応えた。結果的に蒼玦は苦しみもしたが──

「それ以上に与えられたものも、大きかった」
　だが蒼玦の言葉は、洪戒に届かない。
「だから後悔していないとでも？　俺には未だに引き摺っているように見えるけどな」
　冷め切った一瞥をくれる洪戒に対し、蒼玦は瞼を伏せることしか出来ない。図星なのだ。
　洪戒は蒼玦が喪失したものの大きさを知っている。穿たれた穴が塞がれず、未だ悔恨の中で彷徨っていることも。今の蒼玦には幸福の在処なんてわからない。それでは義兄を納得させることなど出来やしないのだ。
　出口の見えない問答は尻窄まりになって、結局蒼玦の方が先に閉口し──途絶える。
　洪戒はもう興味も失せたか、窓の方に視線を戻し──
「何ッ⁉」
　急に洪戒が声を上げるので蒼玦は面食らう。
　立ち上がった洪戒は欄干から身を乗り出す。横顔は窓下の何かを捉え、一点を睨め付ける。蒼玦も倣ってみるが、家々の屋根と路を行き交う人が見えるばかりのどこを見詰めているのか見当もつかない。困惑顔で洪戒を振り仰ぐが、刹那、男の体は欄干の外へふわりと浮いた──
　蒼玦が驚く間に洪戒は窓の下方、妓院を取り囲む磚墻かわらべいの上に降り立つ。衝撃で瓦が数枚音を立てて割れた。
「ど、どこへ行くんです⁉」
　小さくなった男の頭上に声を注ぐ。三階の窓から覗く蒼玦を洪戒は見上げる。
「用事が出来た。済んだら戻る！」
　声を張り上げると、洪戒は蒼玦の制止も聞かず磚墻の向こう側に体を躍らせた。

探花抄Ⅱ〈二〉木菟翁